村野家は、村山党の郷士という由緒を持つ家で、慶長一四年(一六〇九)に砂川新田(現立川市)の開発を願い出ている。以降、砂川新田の開発は、入村者を募り集落を形成しながら、元禄二年(一六八九)まで、段階的に進められた。村野家は居村岸村にとどまるが、開発人として砂川新田の名主を勤めていた。村野助左衛門が分家したのちは、助左衛門家がこれを勤め、元禄年間には助左衛門の子重左衛門が新田に移住し、砂川新田名主家を立てたとされる。
一方の小川家は、武蔵七党のうちの一党小川氏の嫡流を称し、戦国時代には北条氏に仕え、その滅亡後、村山地域に土着したとされる。明暦二年(一六五六)に、小川九郎兵衛が代官今井八郎左衛門(いまいはちろうざえもん)に願い出て、入村者を募り小川村の開発を主導した。九郎兵衛は実名を安次といい、当初は岸村にとどまり、小川村の名主を勤めていた。しかし、晩年は小川村に移住し、小川村小川家の初代となった。それにともない、岸村小川家は九郎兵衛の嫡子義春が相続した。また、ほどなく九郎兵衛が死去すると、小川村小川家は、養子市郎兵衛義重(箱根ヶ崎村名主村山家の出身)が相続した。
なお、詳細は不明だが、九郎兵衛は、万治・寛文のはじめ頃(一六六〇年前後か)、代官中川八郎左衛門(なかがわはちろうざえもん)の指示により、武蔵国横見郡吉見領(現埼玉県比企郡吉見町)の用悪水堀開削に資金提供し、同地の開発に関与したという記録も残っている。
このように、岸村において、百姓らが集落の南側の武蔵野に畑をひらき、丘陵から台地に進出していくなか、当村の上層で、より資力のあった村野家や小川家は、入村者を募っての大規模な武蔵野開発に乗り出していった。