武蔵野の開発状況

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武蔵野の開発が本格化するのは、近世になってからである。一般に、近世の武蔵野開発には三度のピークがあったとされる。一度目は近世初期の慶長年間頃(一五九六~一六一五)、二度目は寛永年間(一六二四~四四)~元禄年間(一六八八~一七〇四)にかけての頃、三度目は八代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)が行った享保改革の時期(一八世紀前半)となるが、三度目のピークについては次節で述べ、ここでは、一度目と二度目のピークに行われた開発がどのようなものであったかをみていくことにしよう。
 まず、表1-1として掲げたのは、一度目と二度目のピークが含まれる一七世紀に、武蔵野にひらかれた新田村の一覧で、郡毎に村名と開発年代、完成時期の目安となる総検地年代、開発人などの情報を示してある。表に示したものだけでも、四一か村が確認でき、一七世紀の武蔵野で開発が活発に行われたようすがよくわかる。なかでも開発年代の早いものは、多摩郡の新町村(しんまちむら)(表中1)、砂川村(すながわむら)(2)、矢ケ崎村(やがさきむら)(4)、入間郡の豊田新田(とよだしんでん)(15)、大袋新田(おおふくろしんでん)(16)、大塚新田(おおつかしんでん)(20)で、慶長年間頃にひらかれたとされる。これらが、一度目のピークに開発された村々である。
表1-1 17世紀武蔵野台地の新田村
通番村名現在地開発年代総検地年代開発人
多摩郡(東京都)
1新町村青梅市慶長16年(1611)寛文8年(1668)下師岡村 吉野織部之助
2砂川村立川市慶長14年(1609)元禄2年(1689)岸村 村野某
3小川村小平市明暦2年(1656)寛文9年(1669)岸村 小川九郎兵衛
4矢ケ崎村調布市近世初期延宝6年(1678)浪人 矢ケ崎長右衛門
5関前村武蔵野市万治頃(1658~1660、寛文10年とも) 関村 井口八郎右衛門
6西久保村武蔵野市万治頃(1658~1660)寛文2年(1662)江戸西の久保 紋右衛門
7吉祥寺村武蔵野市万治2年(1659)寛文4年(1664)江戸本郷元町 吉祥寺、浪人佐藤定右衛門等
8松庵村杉並区万治頃(1658~1660) 医師 松庵
9中高井戸村杉並区承応以降(1652~1655以降)  
10大宮前新田杉並区万治頃(1658~1660)寛文12年(1672)関村 井口八郎右衛門(八郎左衛門とも)
11上連雀村三鷹市万治以降(1658~1660以降)寛文12年(1672)関村 井口権三郎
12下連雀村三鷹市万治2年(1659)寛文4年(1664)江戸連雀町 町人
13境村武蔵野市万治以降(1658~1660以降)延宝6年(1678)保谷村 下田三右衛門
入間郡(埼玉県、38大岱村のみ東京都)
14野田新田川越市 慶安元年(1648) 
15豊田新田川越市慶長頃(1596~1619)慶安元年(1648)三ケ嶋村 仲左京亮
16大袋新田川越市慶長頃(1596~1619) 後北条浪人 横山次右衛門
17柏原新田狭山市寛永頃(1624~1643) 柏原村 五郎右衛門
18大仙波新田川越市 慶安元年(1648) 
19砂久保村川越市正保頃(1644~1647)延宝3年(1675) 
20大塚新田川越市慶長頃(1596~1619) 桶川宿 新兵衛・次郎右衛門
21今福村川越市承応頃(1652~1654)延宝3年(1675)大塚新田 佐左衛門(牛窪佐右衛門とも)
22中新田狭山市 延宝3年(1675) 
23中福村川越市 延宝3年(1675) 
24上松原村川越市 延宝3年(1675)川越藩羽生又左衛門の足軽鈴木安兵衛
25下松原村川越市 延宝3年(1675) 
26上赤坂村狭山市承応頃(1652~1654)延宝3年(1675) 
27下赤坂村川越市万治3年(1660) 下野国佐野 石川采女
28堀兼村狭山市承応頃(1652~1654)  
29鶴岡村ふじみ野市 貞享3年(1686) 
30福岡新田ふじみ野市 慶安元年(1648) 
31南永井村所沢市 延宝3年(1675) 
32北永井村三芳町寛文2年(1662)延宝3年(1675) 
33上富村三芳町元禄7年(1694)元禄13年(1700)忠左衛門
34中富村所沢市元禄7年(1694)元禄9年(1696)亀久保村 喜平次
35下富村所沢市元禄7年(1694)元禄11年(1698)同村名主廣右衛門の先祖(大袋新田より来村)
36藤久保村三芳町 延宝3年(1675) 
37亀ケ谷村所沢市万治2年(1659)延宝3年(1675) 
38大岱村東村山市承応4年(1655)寛文9年(1669) 
39南畑新田富士見市 慶安元年(1648) 
新座郡(埼玉県)
40北野村新座市寛文頃(1661~1672)  
41菅沢村新座市寛文頃(1661~1672)  
*木村礎・伊藤好一編『新田村落』p.31の表をもとに作成。
*村名は幕末のものを採用した。
*総検地年代は、典拠とした表をそのまま採用した。
*開発年代・開発人は、『埼玉県の地名』(日本歴史地名大系第11巻)、『東京都の地名』(同第13巻)、『角川日本地名大辞典13 東京都』などをもとに情報の訂正・補足をした。

 いくつかの村を例に開発のあらましを確認すると、新町村(現青梅市)は、北条氏に属した忍城主成田氏(おしじょうしゅなりたし)の元家臣で、当時下師岡村(しももろおかむら)に居住していた吉野織部之助(よしのおりべのすけ)により、慶長一六年(一六一一)にひらかれたとされる。また、大袋新田(現埼玉県川越市)は、北条浪人の横山次右衛門(よこやまじえもん)により慶長年間頃に、矢ケ崎村(現調布市)は浪人矢ケ崎長右衛門(やがさきちょうえもん)により近世初頭に、それぞれひらかれたという。砂川村(現立川市)は、当時岸村(きしむら)(現武蔵村山市)に居住していた村野家(むらのけ)により、慶長一四年にひらかれたとされているが、開発人の村野家は岸村を含む村山郷の中世来の有力者であったようである。このように、一度目のピークに行われた開発は、土着した武士もしくは地域の有力者であった土豪(どごう)の系譜をひく者たちにより進められたものであった。
 二度目のピークの時期には引き続き、保谷村(ほうやむら)(現西東京市)の下田三右衛門(しもださんえもん)がひらいた境村(さかいむら)(現武蔵野市、13)のように、土豪による開発が行われていたが、それとともに、江戸の発展とかかわった開発が行われるようになった。たとえば、江戸の水需要の増大に対応するため、承応年間(一六五二~五五)に開削された玉川上水の敷地の代替地に、高井戸村(たかいどむら)の住民たちが移動して開発した中高井戸村(なかたかいどむら)(現杉並区、9、当初は高井戸新田といった)は、その最たるものである。このほかにも、明暦三年の江戸の大火(明暦の大火)で被害を受けた神田連雀町(かんだれんじゃくまち)(現千代田区)の町民二五戸が、その地を火除地(ひよけち)として没収されたため、移住してひらいた下連雀村(しもれんじゃくむら)(現三鷹市、12、当初は上連雀新田といった)、やはり明暦の大火で被災し、江戸本郷元町(現文京区)の吉祥寺門前(きちじょうじもんぜん)の住民が移住してひらいた吉祥寺村(現武蔵野市、7)などがある。小川村は、まさにこの二度目のピークのなかで開発された新田村だった。