小川村の敷地はもともと、青梅街道(おうめかいどう)の田無(たなし)(現西東京市)や箱根ヶ崎(はこねがさき)(現瑞穂町)など、七か所へ向かう道が走る交通の要衝であった。しかし、当地には人家もなく、天候次第では往来する人馬が「湯水に渇」き、その結果、行き倒れてしまう者も多かった。とくに、田無・箱根ヶ崎間は交通量が多く、御用の石灰(せっかい)を急いで送らねばならないときには六〇駄・九〇駄・一二〇駄にもなるわりに距離が長く、不便な状況であった。当時、岸村に住み、このようすをみていた九郎兵衛は明暦二年に、各方面への伝馬継ぎ(てんまつぎ)を勤めること、そして、往来する人馬の助けとなるよう、自らの私財(「自分の入用金」)を投じて新田を開発することを、今井八郎左衛門(九右衛門(きゅうえもん)、忠昌(ただまさ))に願い出た。願いは容れられ、その後老中(ろうじゅう)の松平伊豆守信綱(まつだいらいづのかみのぶつな)(川越藩主)から、西は玉川上水(たまがわじょうすい)と野火止用水(のびどめようすい)の分岐点より、東は田無方面へ開発するように指示された。これをうけ、九郎兵衛は開発に着手したが、地味の悪い場所ということもあり、当初は入村を希望する者も少なかった。そこで、私財を投じて早急に百姓を住まわせ、翌年からは御用石灰の輸送をはじめとする七か所への伝馬継ぎを勤め、年貢も寛文四年(一六六四)の仮検地(けんち)後から納入しはじめた。同九年の検地に際しては、開発の「御褒美」として、小川九郎兵衛の地所六町余に課される年貢を免除され、その上、村名を小川の苗字からとり、小川新田とすることとなった(史料集一二、一七頁)。
以上のように、当村の開発は小川九郎兵衛が代官に開発を願い出たことにはじまり、開発にあたっては同人が私財を投じて、入村者が当地に住み着けるよう援助するなど主導的な役割を果たしたこと、当村は単に畑作農村としてだけではなく、青梅街道による江戸への石灰輸送をはじめとする交通の中継拠点として開発されたことなどが述べられている。
小川村の開発は、土豪小川九郎兵衛の主導によるものであること、そして、江戸への石灰の輸送事情と深くかかわっていたことの二点において、まさしく近世武蔵野開発における二度目のピークの特徴を、色濃く反映していた。
図1-1 小川家の玄関 (昭和32年撮影) 飯山達雄写真 (小平市立喜平図書館所蔵) |