表1-2 小川村への入村者 | |||
通番 | 出身地 | 現在地 | 人数 |
1 | 宮寺 | 入間市 | 5 |
2 | 下影森 | 秩父市 | 1 |
3 | 上新井 | 所沢市 | 1 |
4 | 林 | 所沢市 | 3 |
5 | 名栗(上・下名栗、名栗小沢) | 飯能市 | 3 |
6 | 上畑 | 飯能市 | 7 |
7 | 下畑 | 飯能市 | 8 |
8 | 苅生 | 飯能市 | 1 |
9 | 小久保 | 飯能市 | 1 |
10 | 下直竹 | 飯能市 | 1 |
11 | 日影 | 飯能市 | 1 |
12 | 窪田 | 比企郡吉見町 | 4 |
13 | ひがぬき | 秩父・高麗郡 | 1 |
14 | 江戸谷ノ御蔵屋敷 | 東京都 | 1 |
15 | 江戸早稲田 | 新宿区 | 2 |
16 | 原小宮 | あきるの市 | 2 |
17 | 深沢 | あきるの市 | 2 |
18 | 二ノ宮 | あきるの市 | 1 |
19 | 青梅 | 青梅市 | 4 |
20 | 成木(成木・上成木・大沢入) | 青梅市 | 12 |
21 | 北小曾木 | 青梅市 | 3 |
22 | 南小曾木 | 青梅市 | 1 |
23 | 駒木野 | 青梅市 | 1 |
24 | 沢井 | 青梅市 | 2 |
25 | 黒沢 | 青梅市 | 2 |
26 | 畑中 | 青梅市 | 3 |
27 | 日掛和田 | 青梅市 | 1 |
28 | 日向和田 | 青梅市 | 1 |
29 | 新町 | 青梅市 | 1 |
30 | 海沢 | 奥多摩町 | 2 |
31 | 境 | 奥多摩町 | 1 |
32 | 留浦村 | 奥多摩町 | 2 |
33 | 野口 | 東村山市 | 9 |
34 | 廻田 | 東村山市 | 1 |
35 | 後ヶ谷 | 東大和市 | 1 |
36 | 芋久保 | 東大和市 | 1 |
37 | 清水 | 東大和市 | 4 |
38 | 高木 | 東大和市 | 5 |
39 | 高幡 | 日野市 | 1 |
40 | 大久野 | 日の出町 | 2 |
41 | 福生 | 福生市 | 1 |
42 | 中藤 | 武蔵村山市 | 3 |
43 | 三ツ木 | 武蔵村山市 | 2 |
44 | 横田 | 武蔵村山市 | 1 |
合計 | 112 | ||
*各年の入村請書より作成。 *入村者の人数は世帯数。 |
図1-3 小川村の入村者 |
*埼玉県・東京都の現在の地図に、近世の村の位置を示した。 *数値は入村者数(世帯数)。 |
これらから、小川村への入村者は、さまざまなところから集まってきたことがよくわかる。現在の埼玉県入間市・飯能市(はんのうし)・所沢市、東京都あきるの市・青梅市・奥多摩町・東村山市・東大和市・武蔵村山市に含まれる村々が主だったところであるが、なかには、秩父のような遠隔地にある村からの入村者も確認できる。また地形的にみれば、加治(かじ)・草花(くさばな)・狭山などの丘陵部もしくは山間部に位置する村々からの入村者がほとんどであるが、「江戸谷ノ御蔵屋敷」「江戸早稲田」など、江戸もしくはこれに近接する場所からの入村者も、わずかながら認められる。このように、小川村には、元禄年間末までに四四か所にわたる村や地域から入村者が集まってきていた。
なお、小川村の開発を主導した小川九郎兵衛の出身村である岸村からの入村を示す請書はなく、それゆえに表1-2や図1-3にも岸村の記載はない。しかし、岸村からの入村者が一人もいなかったとは考えにくく、九郎兵衛と同郷ゆえに、改めて身元を証明する入村請書が作成されなかった可能性もある。
各所からの入村者は、小川村の開発着手後、ほどなくしてみられたようである。開発が許可された明暦二年(一六五六)には四六人、明暦三年には一〇人、明暦四年(万治元年)には一〇人の入村者が確認できる。すなわち、開発に着手して間もない明暦二年以降の三年間だけで、少なくとも六六名もの入村者があったことになり、当村の開発は、当初より多数の入村者を各地から受け入れて、進められたことがわかる。