では、小川村にやってきた入村者とは、具体的にどういう者たちだったのか。入村者たちが出身地において、社会的にどういう階層に属し、どのようなくらしを営んでいたのかを知ることはむずかしいが、これまでは、二・三男の農民、または下人(げにん)的農民などと推測されてきた。
戦国時代の武蔵国では、年貢・夫役(ぶやく)をはじめとする過重な負担により百姓の欠落(かけおち)が頻発する状況で(欠落とは戦乱や重税・貧困などから、よその土地に逃げる行為をいう)、一部の有力者を除けば、百姓と土地との持続的で強固な結びつきは、いまだ一般的には成立していなかった。小川村開発がはじまる一七世紀中頃には、徐々に改善されつつあったとはいえ、当村に入村してきた者のなかには、このような流動性を克服していない百姓が多くふくまれていたと考えられる。彼らは当村で、誰にも従属しない、自立的なくらしを目指したのである。
しかし、当村の開発に参加したのは、このような経営的自立を目指す百姓らに限られなかった。小川村には抱屋敷(かかえやしき)といって、江戸に住む武士や町人が所持する屋敷・耕地が存在した(第二章第八節)。その数は、開発以来のべ四一軒となるが、所持者の多くは武士である。彼らにも年貢や諸役および伝馬継ぎの負担が義務付けられていたため、抱屋敷には所持者に代わり、これらを勤める「屋守(やもり)」が置かれた。江戸に住む武士や町人が当村に土地を取得したのは、明暦の大火にともなう江戸の都市計画を背景とした避災地の確保、さらには将来の資産価値の上昇を見越しての投機のためとされている。
この抱屋敷に似たものとして、近隣村の有力な百姓が小川村に土地を取得している事例がある。小川村の北側に位置する廻り田村(めぐりたむら)(現東村山市)の江藤太郎右衛門(えとうたろうえもん)家は、小川村の開発が着手された明暦二年(一六五六)一一月に、早くも土地を取得している。同家は、廻り田村中川氏知行分の名主を勤める家である。入村請書の記載によれば、このときは太郎右衛門が小川村へ入村し、その父親運斎(うんさい)が廻り田村に残り、名主を勤めた。ほどなくして代替わりした後、太郎右衛門は帰村し、廻り田村の名主となるが、同家による小川村の土地所持は継続し、享保六年(一七二一)頃にすべての土地を手放したようである。江藤家による小川村の土地所持は、やはり小川村開発に絡んでの投機目的と推測されている。
以上のように、小川村の開発に参加したのは、広い範囲から集まった、流動性を克服できない百姓や二・三男、あるいは下人のような従属的な立場に置かれた人びと、江戸に住む武士や町人、近隣村の有力農民などであり、その目的も経営的自立や投機と、一様でなかった。こうした入村者の多様性は小川村の特徴であるが、それは、東西・南北交通の要衝で、なおかつ江戸近郊という当村の立地条件によるものであった。