延宝二年頃の小川村地割図

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図1-4として掲げたのは、延宝二年頃に小川家当主市郎兵衛(いちろべえ)が中心となって作成されたと考えられる小川村地割(ちわり)図のトレース図である(原図は口絵1)。この地割図から、開発がおおよそ終了した段階の小川村の景観を眺めてみよう。

図1-4 延宝2年頃小川村地割図
(史料集26、p.251)

 まず、小川村の南北および中央に、黒(原図では青)の太い線で描かれているのが用水路である。小川村の南側を流れる「江戸御水道」が玉川上水にあたる(図中1)。その玉川上水から分かれ、小川村の北側を流れる「のひとめ水道」が野火止用水である(同2)。当村の中央を流れる二筋の用水路は小川分水(おがわぶんすい)で、これは玉川上水から取水した水を、青梅街道沿いに並ぶ当村の各家に、飲料水として供給した(同3)。
 つぎに、濃い灰色(原図では朱色)で着色された線が道である。小川村の中央を東西に走る、「御江戸海道」とあるのが、青梅街道である(同4)。このほか、「府中海道」(同5、現在の鎌倉街道)、「川越海道」(同6、同じく所沢街道)、「山口領御江戸道」(同7、同じく東京街道)など、江戸や府中、八王子、川越などの各方面への道が幾筋も当村を通っていることが認められる。これらは、小川村が青梅街道をはじめとする諸街道の中継点としてひらかれたことをよく示している。このほか、農作業のために使用されたとみられる「のみち(野道)」も描かれているが、一方で、鷹野街道(たかのかいどう)のように、地割図が作成される段階には確実に存在したが、描かれなかった道もあるようである。
 この地割図で、とくに大きく描かれているのは、村中央部の短冊型の地割である。この地割が入村者に与えられた開発用地で、彼らはそこに家屋敷を建て、その背後に耕地をひらいていった。図をよくみると、地割の幅は一律ではない。また家屋敷のようすも、床の有無など、比較的しっかりしたものとそうでないものとがあるが、これらの違いは家族の人数や家の格式の違いによるものと考えられる。小川村の開発を主導した小川家の屋敷は「名主免(なぬしめん) 市郎兵衛」とある場所(同8)にあり、その地割はとりわけ大きく、屋敷構えも立派に描かれている。「名主免」とあるのは、年貢が免除される土地を意味し、これは、同家への開発の褒美とされる(本節1)。こうした免除地は、ほかにも小川寺と妙法寺(みょうほうじ)(「寺免」)、神明宮(しんめいぐう)(「神明免」)といった寺社地にもみうけられる。
 しかし、こうした地割が、小川村の土地のすべてを占めていたわけではない。村の西端と東端に注目すると、地割がなく、代わりに「畑」「畠」「はた」という文字が、いくつも記されており、地割の外部にも畑があったことがわかる。ただし、地割部分とは異なり、これらの畑の形状やようすなどについては詳しく描かれていない。このような、畑がひらかれた地割の外側を、「作場(さくば)」と呼んでいたようである(同9、ほかにも「小川新田作場」「小川新作場」などとある)。そして、この作場のさらに外側には、武蔵野(「むさし野」)が広がっていた(同10)。武蔵野は肥料・燃料採取地として利用されていたが、同地の詳しい描写はやはりみられない。