小川村は御伝馬宿として、私の曾祖父九郎兵衛に開発を命じられた。その場所は、武蔵野の真ん中で、飲み水が一切なかったので井戸を掘ってみた。しかし、一五・六尋(ひろ)(約二七~二九メートル)掘っても水が出ないため、開発に行き詰まってしまい、代官今井九右衛門(いまいくえもん)にこの旨申し上げたところ、今井より幕府に上申され、その結果、玉川上水から樋口一尺四方の分水をくだされた。その水のおかげで、小川村を開発することができたと記されている。
図1-5 昭和32年の野火止用水・小川分水の取水口 手前が野火止用水、奥が小川分水(昭和32年撮影)。 飯山達雄写真(小平市立喜平図書館所蔵) |
ここから、当地は飲み水の入手が困難であったため、当初から開発が行き詰まってしまったこと、そして、玉川上水よりの分水が許可されることにより、はじめて人の住める条件が整い、開発が進んだことがうかがえる。それゆえ、小川分水の開削は、小川村の開発で最初に取り組まれた工事と考えられる。当村の開発が許可されたのは、おそらく明暦二年(一六五六)六月頃で、また、さきにみた入村請書によれば、同年一一月の時点で、すでに三三名の入村者が確認できるので、小川分水の開削工事は、明暦二年六~一〇月頃の間に行われたようである。
この小川分水の開削に尽力したのが、小川九郎兵衛であったと考えられる。やはり、のちの史料であるが、享保一六年(一七三二)四月、代官より小川分水の由来を尋ねられた名主小川弥次郎(おがわやじろう)と組頭(くみがしら)は、小川分水は「九郎兵衛入用をもって取り立て申し候」、つまり開発人九郎兵衛が私費を投じて開削したのだと回答している(史料集二四、三頁)。そして、小川家のように開発人となった土豪が、用水路整備をになったことが各地でも指摘されていることを踏まえれば、小川村の開発にあたり、九郎兵衛が分水開削に中心的な役割を果たしたことは、ほぼ確実とみてよい。