表1-3① 小川村の土地開発過程 | ||||||||||||||||||||
寛文9(1669) | 延宝2(1674) | 天和3(1683) | 元禄2(1689) | 享保18(1733) | ||||||||||||||||
町 | 反 | 畝 | 歩 | 町 | 反 | 畝 | 歩 | 町 | 反 | 畝 | 歩 | 町 | 反 | 畝 | 歩 | 町 | 反 | 畝 | 歩 | |
下畑 | 27 | 6 | 2 | 12 | 11 | 4 | 6 | 24 | 4 | 9 | ||||||||||
下下畑 | 141 | 9 | 1 | 17 | 129 | 6 | 1 | 22 | 46 | 3 | 6 | 7 | 9 | 7 | 2 | 3 | 5 | 12 | ||
萱野 | 6 | 4 | 12 | |||||||||||||||||
林畑 | 4 | 3 | 15 | |||||||||||||||||
屋敷 | 13 | 6 | 5 | 7 | 5 | 2 | 4 | 5 | ||||||||||||
合計反別 | 183 | 1 | 3 | 29 | 146 | 8 | 3 | 16 | 53 | 7 | 1 | 7 | 10 | 3 | 6 | 12 | 7 | 8 | 27 | |
総反別 | 183 | 1 | 3 | 29 | 329 | 9 | 7 | 15 | 383 | 6 | 8 | 22 | 394 | 5 | 4 | 394 | 8 | 4 | 1 | |
村高 | 421.103石 | 596.656石 | 660.168石 | 670.532石 | 672.464石 | |||||||||||||||
開発率 | 46.40% | 83.60% | 97.20% | 99.80% | 100% | |||||||||||||||
『小平の歴史を拓く』(下)pp.491-492の表1より作成。 |
表1-3② 小川村の土地開発過程〈地区別〉 | ||||||||||||||||||||
寛文9(1669) | 延宝2(1674) | 天和3(1683) | 元禄2(1689) | 享保18(1733) | ||||||||||||||||
町 | 反 | 畝 | 歩 | 町 | 反 | 畝 | 歩 | 町 | 反 | 畝 | 歩 | 町 | 反 | 畝 | 歩 | 町 | 反 | 畝 | 歩 | |
屋敷+畑(地割) | 144 | 7 | 8 | 16 | 52 | 2 | 8 | 9 | 21 | 9 | 9 | 25 | ||||||||
個別畑(作場など) | 38 | 3 | 5 | 13 | 94 | 5 | 5 | 7 | 31 | 7 | 1 | 12 | 10 | 3 | 6 | 12 | 7 | 8 | 27 | |
合計 | 183 | 1 | 3 | 29 | 146 | 8 | 3 | 16 | 53 | 7 | 1 | 7 | 10 | 3 | 6 | 12 | 7 | 8 | 27 | |
屋敷数 | 108 | 44 | 11 | 0 | 0 | |||||||||||||||
各年の検地帳より作成。 |
このうち、青梅街道に沿って南北に並ぶ短冊型地割にふくまれる屋敷と畑は、入村者が当地に居住し、公儀(幕府)から課される役義とくに伝馬継ぎをになっていくための基盤として開発された。具体的な開発行程としては、まず小川家が開発区画となる地割を設定して、入村者らに土地を割り渡す。そして、入村者らは小川家から割り渡された地割内に家屋敷を建て、その背後に畑(多くの場合、下畑一筆・下々畑二筆)をひらいていった。小川村は西から上宿・中宿・下宿の三つに分かれるが、一例として、小川村の中ほど、中宿(なかじゅく)の地割を示すと、図1-6のようになる。なお、一間は、約一・八メートルである。
図1-6 寛文9年小川村中宿北側の地割
木村礎『近世の新田村』p.127の図をもとに作成。
地割内の屋敷と畑の一体性は強く、入村者らがこれらを手放す際は切り売りできず、原則として屋敷と畑を一括して、売らなければならなかった。地割内の土地の切り売りは、屋敷に居住し、伝馬継ぎなどの役負担を勤める者の基盤を損なうことになるからである。それゆえか、地割内の畑は屋敷に付属するものとされ、地割全体で一括して「屋敷」とされた。
このような青梅街道沿いの地割の土地(屋敷と耕地)の反別は、村の総反別(そうたんべつ)(面積)の約六割を占めるが、図1-4の地割図では、地割の部分が明らかに拡大して描かれている。とくに、南側の地割は青梅街道より玉川上水まで伸びているように描かれているが、これらの地割の南端は、小川寺の地割から東北東に延びる鷹野街道によって区切られている。
一方、小川村の周縁部といえる作場(さくば)は、当村の居住者が自ら所持する屋敷付属の畑に加え、さらなる土地の獲得を企図して開発されたものである。ただし、開発は各自が自由に行えたわけではなく、小川家が「作事(さくじ)」と呼ばれる地盤整備を行って開発地を割り渡し、希望者は「開(ひらき)」という畑を実際に開墾する作業をになった。いわば、補足的な耕地といえ、大きさもまちまちであった。
このような畑が集まっているため、村の周縁部は地割図に、耕作地・田畑を意味する語である「作場」と表現され、「屋敷」と認識される短冊型地割の土地とは明確に区別されていた。そのため、作場の畑は短冊型地割の土地と一括されることなく、個別に取引された。これらの畑は、短冊型地割の屋敷・畑とは帳面を分けて検地帳に登録され、その面積は村の総面積の約四割を占めた。検地帳によれば、南側の地割の背後、つまり鷹野街道と玉川上水の間にも作場と同様の畑が認められる。作場に代表される、青梅街道沿いの短冊型地割の外側に位置した村の周縁部は、地割図に描かれているよりも、かなり広かった。
以上のように、村の周縁部の補足的な耕地開発にも小川家の色濃い関与がみられ、入会地(いりあいち)を除く当村のすべての土地は、小川家主導のもとで開発された。