寛文九年検地と小川村の成立

55 ~ 57 / 868ページ
小川村の開発は急速に進み、開発がはじまった翌年の明暦三年(一六五七)からは伝馬継ぎの役目が、また仮検地後の寛文四年(一六六四)からは年貢が、それぞれ課されるようになった。
 さらに、小川九郎兵衛は、入村者らに開発用地を造成し割り渡していく一方で、彼らがこの地でくらしていくうえで不可欠な寺社を、寛文四年までに招致し、取り立てている。同年の仮検地帳では、神明宮と日吉山王社(ひえさんのうしゃ)(現日枝神社)、臨済宗円覚寺派小川寺、曹洞宗妙法寺の敷地が除地とされている。神明宮と日吉山王社は、いずれも九郎兵衛が勧請(かんじょう)した当村の鎮守だが、とくに前者の神明宮は、九郎兵衛の居村である岸村の字神明ヶ谷(武蔵村山市)という場所にあった阿豆佐味天神社の摂社を勧請したものである。小川寺と妙法寺は、九郎兵衛が開基となり取り立てられた寺院で、寛文五年までには、小川村の上(西)の方は小川寺、下(東)の方は妙法寺というように、檀家を均等に分けることが決められている。
 以上のように、小川分水の開削以降、多くの入村者を得て土地開発が進むなかで、徐々に村としてのすがたも整ってきた。そして、寛文九年、それまでに当村で開発されたすべての土地を対象に検地が実施され、反別(広さ)や土地に課される年貢負担者(名請人(なうけにん)という)が定められた。また、寛文四年の仮検地で設定されていた除地が、この寛文九年検地で改めて確定し、以降近世を通じて維持された。そのなかには、開発に対する「御褒美」ともいう九郎兵衛の除地(「名主免」)六町余もふくまれている(本節1)。前掲表1-3①によれば、寛文九年はなお開発途上だが、ここに小川村の一応の成立をみることができる。
 所持する土地の広さを基準とした、寛文九年当時の小川村百姓の階層構成は表1-4のとおりである。それによると、寛文九年検地で、それぞれの土地に課される年貢負担者として把握された小川村百姓数は九六名。その多くは、一町歩以上から三町歩の規模の土地を所持しており、当村は所持地の広狭の差がそれほど大きくない、比較的フラットな構成であることがわかる。また、ほとんどが屋敷所持者であることも、古村とくらべて特徴的である。
表1-4 寛文9年 小川村の階層構成
反別人数
~10町5
~5町7
~3町65
~1町19
合計96
寛文9年2月「武蔵国多摩郡山口領小川村新田検地水帳」(小川家文書)より作成。

 このように、小川村の開発は順調に進んだようにみえる。しかしながら、当時はいまだ生産が不安定だったこともあり、小川村への入村者たちが、この村で安定的にくらすことは困難なことだった。
 寛文二年、小川村の百姓らは、名主の九郎兵衛を奉行所に訴えるが、その際の彼らの訴状には、小川村では生計が成り立たなくなり、潰れてしまった百姓が六四軒ある、この者たちは妻子や自身を身売りして離村し、江戸や他の村々にいる、という状況が述べられている。また、寛文四年仮検地と寛文九年検地とでは、さほど時間を隔てていないのに、名請人の一致しない事例が多く確認できることも、こうした百姓の流動性の高さを示すものである。したがって、当時の小川村の百姓たちのなかには、生活が成り立たなくなり、離村してしまう者が少なからずいて、その入れ替わりはかなり激しかった。