小川家の地代銭取得特権

57 ~ 58 / 868ページ
開発着手から寛文九年(一六六九)検地前後までの、いわば成立期の小川村はどういうようすだったのか。開発人小川家と、当村の入村者である百姓との関係から探ってみよう。
 小川村の開発がはじまって間もない明暦四年(万治元年・一六五八)二月、小川村の百姓中七六名は小川九郎兵衛に対し、つぎのような取り決めを行い、手形を差し出した。それは、一〇年後の寛文八年より、田畑を開墾次第、代官に納める年貢のほかに、畑一反あたり永三文、田一反あたり米三升ずつを毎年、百姓から九郎兵衛に納める、というものであった。小川村では、幕末まで田はひらかれなかったので、ここでは、九郎兵衛が取得できるとされている永三文を「地代銭」、これを取得できる権利を「地代銭取得特権」と呼んでおく。この取り決めは、「代々子共」まで、また村内の者に土地を売ったり、他所の者に跡を譲ったりする場合には、その相続者にも申し伝えることとされた。したがって、地代銭取得特権は期間を限定したものではなく、いつまでも続く権利とされていたといえる(史料集一二、一八四頁)。
 のちに、地代銭取得特権の存廃をめぐり、小川村の百姓たちと小川家は対立する。その際、百姓側はこの特権の成立経緯について、当村の土地は小川家の「拝領地」であるとの理由から、九郎兵衛が百姓らに地代銭の支払いを申し付けたとしている(史料集一五、一三頁)。この主張の真偽を確定することは困難だが、少なくとも百姓らが、地代銭を支払うことと、当村の土地がすべて小川家の土地(「拝領地」)であるということを関連させて認識していたことは確かである。
 したがって、明暦四年に百姓らが九郎兵衛に対し、永続的に地代銭を取得することを認めたのは、当村の土地がすべて小川家のものであると認識していたからにほかならない。すなわち、小川村の土地は、開発や耕作に従事する個々の百姓の土地であるとともに、小川家の土地でもあるという、一見複雑だが、小川家主導という開発経緯にちなんだ性格を有していた。土地台帳である検地帳などの記載に表現されているわけではないが、小川家は当村のすべての土地の所持者であったために、百姓たちから地代銭を取得することができたのである。このことは、小川家が百姓に負担を強いながら、利益をあげているという点で、両者の関係における小川家の優位を示すものといえる。