一つは、支配領主である幕府・代官から、自らが中心となって百姓を助成するための資金を獲得する方法である。明暦四年(万治元年・一六五八)二月、小川村の百姓七四名は、五年を期間として、代官から借金をした。金額は、百姓一軒あたり金一両で、合計七四両。この借金は、小川九郎兵衛から代官に願いが出され、返済も同人を介して行われることになっていたようである。
また、翌年の万治二年三月、九郎兵衛は小川村の百姓らとともに、代官から金一〇〇両を借用した。理由は、伝馬継ぎの役儀を勤めることが困難であるためというもので、返済期限は同年暮れとされた。借用した金百両は、やはり九郎兵衛を介して百姓へ分配された。なお、このときの九郎兵衛の勘定は、すぐのちに百姓らにより批判されることになる。
このように、九郎兵衛は幕府・代官から資金を借り受け、困窮百姓の助成にあたっていたが、返済が滞った場合、責任は小川家が負わねばならなかった。実際、万治二年に借用した金一〇〇両は期限内に返済できなかったため、延納期限直前の寛文四年(一六六四)正月、九郎兵衛は金四〇両をひとまず立て替えている。
もう一つは、小川家自らが資金を拠出して、困窮百姓を救済する方法である。表1-5は、寛文年間までの、九郎兵衛による金子貸付事例の一覧である。全部で一六の事例が確認できるが、もとより、これらは史料からわかる範囲のもので、実際はさらに多かったはずである。
表1-5 小川九郎兵衛の金子貸付(寛文年間まで) | |||
No. | 年月 | 貸付金額 | 貸付相手 |
1 | 万治2(1659).11 | 1両3分 | 久兵衛 |
2 | 寛文2(1662).8 | 4両、250文 | 三ツ木村 五郎右衛門 |
3 | 寛文2(1662).11 | 5両1分、300文 | 岸村 太郎兵衛 |
4 | 寛文2(1662).12 | 2両2分 | 山際 六右衛門 |
5 | 寛文3(1663).11 | 1両2分 | 岸村 茂兵衛 |
6 | 寛文4(1664).8 | 1両1分 | 岸村 藤右衛門 |
7 | 寛文4(1664).8 | 2分2朱 | 三ツ木村 八兵衛 |
8 | 寛文5(1665).2 | 1両1分 | 小川下 善左衛門 |
9 | 寛文5(1665).2 | 3分 | 小川下 市左衛門 |
10 | 寛文5(1665).2 | 1分2朱 | 小川上 長兵衛 |
11 | 寛文6(1666).12 | 4両3分 | 小川上 久兵衛 |
12 | 寛文7(1667).11 | 3両800文 | 青梅町 三郎右衛門 |
13 | 寛文8(1668).6 | 3両1分 | 小川 二郎左衛門他9名 |
14 | 寛文8(1668).12 | 3両 | 小川下 茂兵衛 |
15 | 寛文8(1668).12 | 10両 | 八郎右衛門 |
16 | 寛文8(1668).12 | 1分 | 小川上 市右衛門 |
『小平の歴史を拓く』(下)p.509の表をもとに作成。 |
この表をみると、寛文四年までは岸村やその周辺村の者への貸付事例が多いが、寛文五年以降は、貸付の相手の多くが小川村の百姓となり、明らかな変化が認められる。この変化は、九郎兵衛が岸村から移住してきたとともに、寛文四年から小川村でも年貢が賦課されるようになったことに起因するとみられ、九郎兵衛からの助成を必要とする百姓が増えたことがうかがえる。
小川家による金子の貸付は、百姓たちが当村でくらしを維持していこうとするうえで、重要な意味を持った。たとえば、小川村の久兵衛は、伝馬継ぎの役儀を勤めるための馬も食糧もないという状況だったところ、寛文六年一二月に金四両三分を九郎兵衛より貸与され、これらを入手する資金をえることができた(No.11)。やや時期がくだる延宝八年(一六八〇)四月、百姓たちと係争中だった小川市郎兵衛(九郎兵衛の養子、小川家二代目当主)は、百姓に対し行ってきた金子の貸付について、困窮のため食糧や馬がない者や、病気を患い耕作が困難な者への助成なのだと述べているが、これには一定の事実が反映されているといえる。
以上のように、当村の名主であり、開発人としてすべての土地所持者でもある小川家は、地代銭取得特権を百姓から承認される一方、百姓らが生活を維持できるよう、配慮せねばならなかった。当時の開発人小川家と百姓の関係は、小川家の百姓に対する支配と保護という二面からなっていたのである。しかし、実際には、困窮のため百姓が離村してしまうことがしばしばみられた。そのため、百姓たちは、自分たちが困窮するのは小川家が不当な負担を強いてくるためだと考えるにいたる。こうして起こったのが、寛文・延宝年間(一六六一~八一)の村方騒動(むらかたそうどう)であった。