第一次騒動(寛文二年)

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村方騒動とは、近世の村における、名主や組頭といった村役人層と小前(こまえ)(一般)百姓との間の村政をめぐる紛争のことであり、村方出入や小前騒動などともいう。年貢・諸役負担をめぐる村役人の不正や諸特権の行使是正が主な要因となって起こり、多くの場合、小前百姓が村役人を告発して領主に訴えた。領主は近隣の村役人の仲裁などによる解決を奨励し、村役人が罷免されることもあった。
 こうした村方騒動が、一七世紀後半の寛文・延宝年間(一六六一~八一)に、小川村でも起こった。それは、寛文二年(一六六二)の第一次騒動、延宝四・五年(一六七六・七七)の第二次騒動、延宝七・八年の第三次騒動と、大きく三期に分けられる。後述するように、第三次騒動のみやや性格が異なるが、いずれも、組頭をふくむ百姓たちと、開発人で名主の小川家(九郎兵衛・市郎兵衛)との間で争われた。
 まず、第一次騒動であるが、寛文二年一一月、当村の組頭又右衛門(またえもん)を筆頭とした小川村の「惣百姓(そうびゃくしょう)」から、「御奉行所」(江戸の勘定頭(かんじょうがしら)の役所と考えられる)に、全一一か条からなる訴状が出された(史料集一五、二頁)。前半が欠損しているため、三条目以降の内容しかわからないが、それは、百姓の村でのくらしを脅かす、名主九郎兵衛の「我まゝ」を告発するものであった。百姓らによる九郎兵衛批判の主な内容は、表1-6の通りである。
表1-6 第一次騒動における百姓側の主張
条数争点内容
3代官の御救いの着服代官が野口方面へ向かう際、駄賃銭を下された。しかし、これを名主九郎兵衛が着服し、百姓らには一銭も渡さなかった。
4代官よりの貸付金の不正勘定万治2年4月に代官より金子100両を貸与されたが、名主九郎兵衛は、このうちの54両を百姓に貸し付け、残る46両は九郎兵衛自身の手元に残しておき、それを百姓らに利子を付けて貸し付けている。
5過酷で私的な百姓使役名主九郎兵衛が江戸へ行く際、天候の悪いときは「御乗物」で通行する。往路は田無村まで小川村の百姓8人ずつを連れていき、復路は田無村まで、小川村の百姓を8人ずつ迎えに呼ぶ。また、小川村と岸村の九郎兵衛宅の間も、百姓8人が「御乗物」で送っている。
6過酷で私的な百姓使役5年前より、名主九郎兵衛は、一日に百姓を4人づつ台所へ召し寄せ、馬を洗わせたり、畑をひらかせたりしている。また4人のうち、1人は馬指として働かされ、残りは無体に酷使されている。
7代官の御救いの着服、松木売却代金の不正勘定代官が御林から風で折れてしまった松を、百姓一人に二本ずつ与えた。この松木を江戸で売ることになったが、名主九郎兵衛は、この代金を百姓らに一切渡さない。
8不当な土地売買による利益確保名主九郎兵衛は、小川村の潰れ百姓64軒の屋敷を、代金17両2分余りにて売却し、利益を得た。
9瓜販売代金の不正勘定小川村で収穫された瓜を江戸の問屋に売った際の勘定が、小川九郎兵衛と問屋とでは違っている。
10代官手代よりの夫食の着服代官手代の吉野が小川村に屋敷を築造した際、百姓1人につき米1俵の夫食を与えられたが、これを名主九郎兵衛が着服した。
11臼の材木の着服小川村の百姓は立臼を持っていないので、代官へ願い出たところ、御林から臼の材料となる木五本を下付された。しかし、これらはみな、名主九郎兵衛の家屋敷の造作に使われてしまった。
寛文2年11月「(名主九郎兵衛非法ニ付訴状)」(史料集15、p.2)より作成。

 寛文二年の時点で、小川村にはいまだ年貢が賦課されていなかったため、村方騒動でよく争点となる百姓への年貢割付に関する批判はみられない。その代わりに目立つのは、代官やその配下の手代が開発の途上ゆえに生産力が不安定な小川村に対して行った、さまざまなかたちでの施し(「御救い(おすくい)」という)や援助の分配をめぐる批判で、表中の3・4・7・10・11条目がこれにあたる。
 たとえば、3条目では代官が小川村を通って野口方面へ向かう際、百姓を不憫(ふびん)と思い、本来は無料である駄賃銭(だちんせん)を支払ってくれたが、九郎兵衛がこれを着服し、百姓には全く渡さなかったとある。また4条目では、飢饉(ききん)に襲われた百姓をやはり不憫に思った代官が、万治二年(一六五九)四月に無利子で貸与してくれた金一〇〇両のうち、五四両を百姓に貸し、残る四六両は九郎兵衛の手元に置き、利子を加え百姓に貸し付けているとしている。
 このように、百姓らは代官や手代が行ったさまざまな施しや援助を、名主九郎兵衛が適正に配分せずに着服していると批判した。不正をして利益をえているという点では、九郎兵衛が潰百姓の屋敷を売却し利益をえているとする8条目や、小川村で獲れた瓜(うり)を江戸の問屋に売った際の勘定が問屋のものと異なり、少額であるとする9条目もまた、同じ趣旨の批判といえるだろう。
 一方、当時の小川家の性格に深くかかわる批判として注目されるのが、5・6条目である。5条目では、名主九郎兵衛が江戸へ出向く際、天気が悪いと、小川村の百姓八人を人足として徴発し、岸村と田無村の間を「御乗物」で行き来するとし、かかる名主の振る舞いは理不尽ではないかとしている。また、6条目には、名主九郎兵衛が五年前から、一日に百姓を四人ずつ台所へ召し寄せ、一人は荷物の継ぎ立てを指図する馬指(うまさし)として働かせ、残る三人は馬を洗わせたり畑をひらかせたりするなど、酷使しているとある。いずれも、名主九郎兵衛による過酷かつ私的な百姓の使役が問題とされ、定着しようとしている百姓らのくらしを脅かす、彼の支配者のような振る舞いが批判されているといえる。
 寛文三年二月、第一次騒動は、小川村の小川寺と妙法寺、そのほか三ツ木(みつぎ)・芋窪(いもくぼ)・清水(しみず)・高木(たかぎ)・村山(むらやま)(箱根ヶ崎を指すか)といった岸村の近隣村および江戸の有力者とみられる者たちが仲裁に入り、収束した。その際の取り決めは、部分的にしか知りえない。しかし、九郎兵衛が百姓を使役することについては、近隣村の名主と同程度にするという制限が設けられ、百姓側の主張が容れられたことが確かめられる。このように、第一次騒動では、当村に定着しようとする百姓らが九郎兵衛に異議を申し立て、その過酷で私的な百姓使役を否定するという一定の成果をあげた。