第二次騒動(延宝四・五年)

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第一次騒動が寛文三年(一六六三)に収束してから一三年後の延宝四年(一六七六)、小川村で騒動が再燃した。
 この第二次騒動は、延宝四年八月、第一次騒動のときと同じく組頭又右衛門を筆頭にする小川村の惣百姓八四名が代官中川八郎左衛門に、同村二代目名主の小川市郎兵衛を訴えたことから始まった。百姓らの訴状の冒頭には、この訴訟の意図が端的に述べられている。それは、小川村の名主市郎兵衛が過大な量の年貢や役を賦課してくることによって百姓らは困窮しているので、やむなく代官に助けを求める、というものであった。
 又右衛門をはじめとする百姓らの訴状は、代官中川の手代志村茂左衛門(しむらしげざえもん)が受け取った。そして、延宝四年一〇月一四日に、百姓らと名主市郎兵衛の双方が八王子の今井九右衛門屋敷(今井は中川の亡父、本章第三節)に出頭することになった。このとき、名主市郎兵衛から、百姓らの訴状に反論した返答書が代官中川に提出された。こうして出揃った双方の主張を示すと、表1-7の通りとなる。
表1-7 第二次騒動の争点と主張
条数争点百姓側の主張小川市郎兵衛の主張
1地代銭取得特権の正当性名主九郎兵衛は、名主を命じられたからには、小川村の土地は自分の拝領地であるので、地代を支払うよう百姓らに申してきた。我々は地代金を納める手形を差し出して、当村に百姓として住み付いた。名主九郎兵衛は8年前に死去しており、百姓らは、今になって同人が地代金を取っていたと偽りを申し上げている。*ただし抹消。
2伝馬賃銭の着服、地代銭取得特権立村以来、伝馬役など遅滞なく勤め、公儀の石灰を田無村まで継ぎ送ってきた。その駄賃は公儀から例年下付されてきたが、地代金の利足と言って、これを名主が引き取ってしまい、百姓には一切渡さない。御用の石灰継ぎ送りに対する駄賃金は、毎年百姓らに渡している。毎年渡していることを示す証文もある。
3年貢の不正勘定年貢収納に際し、請取小札を出すよう願い出たところ、名主は全く承引しない。名主は年貢の過分に取り立てているので、請取小札を出さないのではないか。年貢は割付状通りに大小百姓が寄合のうえ、割り掛け、取り立てており、超過・不足はない。百姓加判による、年貢を相違なく勘定し皆済した旨の証文もある。
4地代銭取得特権の正当性巡検使が来た際、名主は地代のことについては申し上げなかった。そうであれば、名主が理不尽に地代を百姓から取っているのは迷惑である。名主九郎兵衛の代より13か年、畑1反につき永3文ずつを、百姓らから徴収してきた。これは開発時の惣百姓が相談して決めたことである。
5三右衛門屋敷にかかる年貢・諸役の不正勘定名主の屋敷と地続きに、成木の三右衛門という者の屋敷がある。三右衛門は潰れたが、彼の屋敷は名主が引き取った。よって、御年貢・諸役は三右衛門の屋敷分も名主が負担するはずだが、惣百姓にこれを割り掛け、負担させている。成木の三右衛門の屋敷を、自分の屋敷とともに一構えとしているという百姓らの主張は偽りである。検地帳の記載と対照し確認してほしい。
6不正な土地売買、不当な百姓使役寛文9年検地後、47軒分を開発し、内42軒は名主市郎兵衛が金47両で売り、残る5軒、間口90間は惣百姓に境堀を掘らせ、名主下屋敷と名付けて、多数の百姓を過度に使役した。寛文9年検地以後、しばしば土地を割り渡し、45軒の新百姓を取り立てたが、百姓らはこのことを、無礼にも高額で売ったと理不尽なことを申し立てている。とくに、名主が百姓を使役して建てたという間口90間の屋敷などはない。
7巡見使の賄いの着服この夏に巡見使が来た際、名主は百姓から、御賄いとして間口一間につき銭6文を取り立てた。合計銭13貫余にもなったが、実際は、1文もかからなかった。この銭は名主が着服したはずである。巡見使が来た際の百姓の費用負担は全く無かった。百姓らが述べているのは、御用の大小豆代金や、当年7月までに掛かった村の費用などで、組頭が集まって勘定しており、勘定に間違いはない。
8不当な百姓使役、不当な役免除名主市郎兵衛が表口30間、奥行き500間の土地を百姓に開発させ、これを下屋敷と名付け抱え置いた。その屋敷に課される諸役を3年免除し、金9両で販売した。九郎兵衛の代から所持してきた屋敷を3年前に八郎右衛門という者に渡したが、それは新規に開発した土地ではなく、百姓らに何も申し付けていない。この屋敷の役儀免除は、これまでの慣例によるものである。
9酒販売の独占小川村は伝馬宿であるため、住民は往来の者に酒を売って商売を行ってきた。しかし、名主市郎兵衛は、往来の者に、自分以外の者が作った酒を買うことは曲事であると申しており、迷惑している。名主が百姓に酒造りを認めなかったのは、領主の法度により酒造りが禁じられた時のことである。百姓らは、名主が新酒を造っていると申し立てているが偽りであり、許可された寒造り以外は一切行っていない。
延宝4年8月「乍恐書付を以御訴訟申上候」(史料集15、p.13)、延宝4年10月「乍恐返答書を以御訴訟申上候御事」(同p.17)より作成。

 表1-7が示すように、第二次騒動では、小川家の地代銭取得特権(1・4条目)、伝馬賃銭の配分(2条目)、年貢や諸役の勘定と割付(3・5条目)、百姓の使役と開発地の売り渡し(6・8条目)、巡見使(じゅんけんし)(代官の施策を監察するために幕府から派遣された使節)が通行する際の賄い経費の徴収(7条目)、村での酒造りと販売(9条目)、といった諸点につき、自らが不正に利益をえる一方、百姓を困窮させるような振る舞いが名主市郎兵衛になかったかどうかが争われた。
 なかでも注目されるのは、小川家の地代銭取得特権の是非が争点化されていることである。すでに述べたように、この特権は、明暦四年(万治元年・一六五八)二月に小川村の百姓たちから小川九郎兵衛にあてて出された手形によって定められたものであり、両者の関係における小川家の支配的側面を示すものだった。手形の文面によれば、地代銭の納入が開始されるのは一〇年後の申年、つまり寛文八年からとされていた(本節4)。同年、地代銭の納入が現実にはじまると、それがどれほど負担であるのか、百姓らの認識するところとなり、小川家の地代銭収取特権が係争の的になったと考えられる。
 小川家の地代銭取得特権について、百姓らは、先代九郎兵衛が当村の土地は自分の「拝領地」であるから、地代を支払うようにいってきたものだとする。しかも、それは村を訪れた巡見使にも公言できないような、理不尽なものと批判した。これに対し、市郎兵衛は、地代銭徴収特権は開発時に惣百姓が相談し、先代九郎兵衛が私費を投じて当新田を取り立てたことにより困窮したため、永代に反当り永三文の地代銭を支払おうと証文を作成し、決めたことである。ゆえに、市郎兵衛も証文通り地代銭を徴収してきたのだと反論した。
 以上の双方の主張はともに、一面の事実を反映していようが、とくに市郎兵衛のいうように、地代銭取得特権には、百姓らによる明暦四年の手形という相応の根拠があったことは確かである。しかし、第二次騒動に仲裁に入った者たち(扱人(あつかいにん)という)は、地代銭取得特権を従来のまま肯定したわけではなかった。扱人の田無村作右衛門・清兵衛・五兵衛らのものと思われる覚書によると、市郎兵衛の主張に根拠があることを認めつつも、百姓が難儀であることに対し、配慮があってもよいのではないかとしており、代官の下知を仰いでいる。
 結局、延宝五年七月の、田無村扱人作右衛門・清兵衛・五兵衛、小川村の組頭および惣百姓一一七名から市郎兵衛にあてた手形では、一反あたり永三文の地代銭に替え、名主給分として、屋敷間口一間につき永二文を百姓から小川家に支払うこととしている。なお、それ以外の争点については、具体的取り決めがないが、市郎兵衛の主張がおおむね容れられる方向で決着したものとみられる。
 こうして、第二次騒動では、小川村に定着しようとしている百姓のくらしを脅かしかねないものとして、小川家の地代銭取得特権が否定された。このことは、第一次騒動で、九郎兵衛の百姓に対する過酷かつ私的な使役が否定されたのと同じように、小川家の百姓に対する支配や優位が否定されたことを示すものである。
 しかし、それは地代銭取得特権を成り立たせていた前提条件、つまり小川家は開発人として村のすべての土地を、百姓とともに所持しているという事実を変えるものではなかった。騒動後も、困窮して生活を維持できなくなった百姓が、小川家に土地を返却(「返進」と表記される)するという行為が行われていたことは、その証左である。第一次・第二次の騒動により、小川家の支配者もしくは土豪としての性格は否定されたが、開発人としての性格は維持されたのである。