第三次騒動(延宝七・八年)

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第二次騒動の最後に作成された延宝五年(一六七七)七月の手形では、地代銭取得特権の廃止とともに、つぎのような取り決めがなされた。それは、小川家からの負債がある者は、延宝五年から同七年までの三年間で、三分の一ずつ負債を返済する、というものである。第二次騒動とは別に、小川市郎兵衛は、百姓らに借金の返済を求めていたようであり、そのことが手形に反映されたものと考えられる。
 延宝五年閏一二月には、組頭たちから負債の三分の一の返済があったが、又右衛門とその「一味」の百姓は、延宝五・六年とも負債を返済しなかった(史料集一五、二六頁)。延宝六年一〇月、第二次騒動で扱人となった田無村の作右衛門・清兵衛・五兵衛は、代官に決着時の手形の約束を履行しない又右衛門らを訴えた。その結果、又右衛門らは翌年暮れまでに、残らず負債を返済することとなったが、結局果たされなかった。
 そこで、延宝七年一一月、市郎兵衛は負債の返済を求め、又右衛門ほか三二名の百姓らを代官(中川八郎左衛門)に訴えた。訴状によれば、負債の額は金五〇両三分であった。この市郎兵衛の訴えに対抗するかたちで、同年一二月七日、組頭又右衛門を中心とする八一名の小川村「惣小百姓」が市郎兵衛に不正ありと、江戸の勘定頭の役所に対し訴えた。不正の内容は、成木村の三右衛門という者の屋敷を市郎兵衛が取り込んだが、その土地に課される年貢を負担せずに隠田としている、というものであった。なお、この点はすでに第二次騒動で争われた問題であるが(表1-7)、市郎兵衛よりの借金の返済を先延ばし、または回避するために、今回あらためて争点化されたものと考えられる。
 これが、第三次騒動の発端である。しかし、百姓側の訴状は、組頭又右衛門が「惣小百姓」を名のり、八一名の総意であることを装って作成されたもので、必ずしも小百姓八一名の意志を反映したものではなかった(第二章第九節)。そのため、代官中川八郎左衛門の江戸屋敷に、同内容の訴えを行おうとするなかで、判明する限り、三七名もの百姓が名主市郎兵衛に異論はないとして、原告の又右衛門側から離脱している。結局、延宝七年一二月一五日、又右衛門を筆頭とする小川村の「惣百姓」四〇名の名前で、代官に訴状を提出するが、なかには離脱者の名前も確認できるので、又右衛門の「一味」の百姓数はさらに少なくなると考えられる。又右衛門が主導する三度目の訴訟に、百姓の支持はさほど集まらなかった。

図1-7 「惣小百姓」の署名と印
印は組頭又右衛門のもの。
延宝7年12月「乍憚書付を以御訴訟申上候」(史料集15、p.35)

 延宝七年一二月一七日、市郎兵衛は代官にあてて、又右衛門らの訴状に対する返答書を提出した。要点のみ記せば、成木の三右衛門の屋敷について、三右衛門は開発時に屋敷地を受け取ったものの、入村してこなかったため空けておいたが、後に半右衛門と忠左衛門に渡し、両名が年貢と役を負担してきたと反論する。そして、小川家による百姓への貸付金について、生活が成り立たない者には食料を購入するための夫食金を、馬がなく伝馬継ぎの役目を果たせない者には馬の購入代金をそれぞれ貸与してきたが、今にいたるまで返済はないので、厳しく返済を命じてほしいとあらためて訴えている。
 双方の主張が出揃うと、翌延宝八年正月(一六八〇)には、代官中川の手代宮崎藤七(てだいみやざきとうしち)・渡辺弥右衛門(わたなべやえもん)による、事実関係を確認するための現地調査が行われた。そして、同年四月九日、江戸の「柳原和泉殿橋向」の屋敷でもたれた勘定頭たち(杉浦内蔵允正綱(すぎうらくらのすけまさつな)・徳山五兵衛重政(とくやまごへえしげまさ)・甲斐庄喜右衛門正親(かいのしょうきえもんまさちか)・大岡五郎右衛門清重(おおおかごろうえもんきよしげ))の寄合に双方を呼び出し、詮議が行われた。その結果、又右衛門らの行動は、一度決着した問題を再度訴える裁許破りであり、とくに又右衛門は「一方(ひとかた)ならぬ徒(いたずら)もの」と断じられ、ほかの三名の百姓とともに籠舎とされた(史料集一五、四七頁)。そして、八月には、出牢した又右衛門をはじめ、その「一味」であったと考えられる百姓らから、きたる閏八月と十月の二度に分けて、負債を半分ずつ返済するという一札が代官に差し出された。第三次騒動は、百姓側の敗訴に終わったのである。
 ところで、第一次騒動から小川村の村方騒動を主導してきた組頭又右衛門は、実は博奕(ばくち)打ちで、しばしば「世間」に出ては、訴訟沙汰の仲介や後始末をするような人物だった。市郎兵衛も、延宝八年四月の勘定頭による詮議の中で、彼について、訴訟を仕事(「家職」)にしている者と述べている。このような訴訟慣れした人物に主導されることによって、小川村の百姓たちは名主の小川家と村方騒動でわたり合うことができたのだろう。しかし、第三次騒動に示されるように、彼の行動は、常に百姓らの総意をえられたわけではなく、対立者が生じる危うさをともなってもいたのである。
 以上にみてきたように、寛文・延宝年間(一六六一~八一)の村方騒動では、小川家が土豪として百姓を支配し、そのくらしを脅かすことは否定されたが、同家が開発主として百姓らのくらしを下支えする側面は維持された。この村方騒動は、小川家の百姓に対する優位性を修正するとともに、百姓らが小川村の村政に異議申し立てを行う起点となる重要な事件であったことは確かである。しかし、騒動の前後で、小川家と百姓の関係のすべてが変わったわけではなく、小川家が開発人として、百姓一般とは画される特別な地位を維持したことに示されるように、開発以来の双方の関係、もしくは村のあり方が色濃く残ったことも事実だった。