まず、近世の小川村には実際、何頭くらいの馬が、どういった目的で飼われていたのかを確認していこう。表1-8は、村明細帳(村鑑などともいう)の記載をもとに、小川村の家数、馬の頭数、馬所持率(馬の頭数を家数で除した数値で、家数の何割が馬を飼っているのかを示す参考値)を、年ごとに示したものである。時代がくだるにつれ、馬の頭数・馬所持率ともに減少していく傾向にあるが、一八世紀前半までは、馬の頭数が一五〇頭をこえ、馬所持率も八〇%弱と、後の時期とくらべて極めて高いことがわかる。
表1-8 小川村の家数・馬数・馬所持率 | |||
年代 | 家数 | 馬数 | 馬/家(%) |
正徳3 (1713) | 205 | 158 | 77 |
享保19(1734) | 192 | 150 | 78.1 |
寛延3 (1750) | 194 | 100 | 51.5 |
明和8 (1771) | 206 | 45 | 21.8 |
天保9 (1838) | 214 | 76 | 35.5 |
安政4 (1857) | 225 | 42 | 18.6 |
明治13(1880) | 235 | 4 | 1.7 |
『小平の歴史を拓く』(下)p.685の表をもとに作成。 |
これほどの家々が馬を飼う目的とは何だろうか。そこで、注意すべきなのが、小川村で飼われている馬の雄雌の内訳である。正徳三年(一七一三)・享保一九年(一七三四、寛保三年〈一七四三〉の可能性もある)・宝暦一〇年(一七六〇)の村明細帳によれば、当村の馬は、全て「男馬」=雄馬だったことが確認できる。
日本近世の畜産は、生産・育成・使役の一貫経営がみられず、立地条件にもとづいて三つの地域=生産地帯・育成地帯・使役地帯に分化していたとされる。このうち、使役地帯とは、人口稠密(ちゅうみつ)な都会や平坦地農村にあたり、ここでは家畜をまったく生産することがなく、そのため力の強い雄の成畜を購入し使用していたという。小川村は、まさに近世の畜産における使役地帯に該当する。したがって、当村での馬を飼う目的は、使役に特化していたことになるが、農業面における馬の使役は、不可欠といえるほど大きな比重を占めていたわけではなく、やはり石灰などの伝馬継ぎに従事すること、つまり運搬手段としての使役が中心だった。そのため、青梅街道を利用しての石灰輸送量が減少するのにともない、馬の頭数・馬所持率ともに減少していった。では、百姓らはこれらの馬をどのように入手していたのだろうか。