小川村の馬

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明暦二年(一六五六)に開発に着手された小川村は交通の要衝に立地し、青梅街道の田無(現西東京市)・箱根ヶ崎(現瑞穂町)をはじめとする七か村への伝馬継ぎの役割を果たしていた。なかでも青梅街道は、一七世紀末~一八世紀初頭まで、青梅(現青梅市)奥地で採取された石灰が江戸へ大量に輸送されており、小川村でも、石灰の伝馬継ぎが盛んに行われていた。小川村の百姓は馬を持ち、この作業に従事しなければならなかったため、馬を持つことが当村への入村条件の一つにもなっていた(本節2)。すなわち、小川村の開発は、耕地がひらかれ家屋敷が建てられるばかりでなく、当村に住む百姓が馬を入手し、飼うことを欠いては成就しえなかったのである。したがって、ここでは、小川村の百姓が馬を入手し飼うことができた条件なり理由は何かという観点から、当村の開発史に迫ってみたい。
 まず、近世の小川村には実際、何頭くらいの馬が、どういった目的で飼われていたのかを確認していこう。表1-8は、村明細帳(村鑑などともいう)の記載をもとに、小川村の家数、馬の頭数、馬所持率(馬の頭数を家数で除した数値で、家数の何割が馬を飼っているのかを示す参考値)を、年ごとに示したものである。時代がくだるにつれ、馬の頭数・馬所持率ともに減少していく傾向にあるが、一八世紀前半までは、馬の頭数が一五〇頭をこえ、馬所持率も八〇%弱と、後の時期とくらべて極めて高いことがわかる。
表1-8 小川村の家数・馬数・馬所持率
年代家数馬数馬/家(%)
正徳3 (1713)20515877
享保19(1734)19215078.1
寛延3 (1750)19410051.5
明和8 (1771)2064521.8
天保9 (1838)2147635.5
安政4 (1857)2254218.6
明治13(1880)23541.7
『小平の歴史を拓く』(下)p.685の表をもとに作成。

 これほどの家々が馬を飼う目的とは何だろうか。そこで、注意すべきなのが、小川村で飼われている馬の雄雌の内訳である。正徳三年(一七一三)・享保一九年(一七三四、寛保三年〈一七四三〉の可能性もある)・宝暦一〇年(一七六〇)の村明細帳によれば、当村の馬は、全て「男馬」=雄馬だったことが確認できる。
 日本近世の畜産は、生産・育成・使役の一貫経営がみられず、立地条件にもとづいて三つの地域=生産地帯・育成地帯・使役地帯に分化していたとされる。このうち、使役地帯とは、人口稠密(ちゅうみつ)な都会や平坦地農村にあたり、ここでは家畜をまったく生産することがなく、そのため力の強い雄の成畜を購入し使用していたという。小川村は、まさに近世の畜産における使役地帯に該当する。したがって、当村での馬を飼う目的は、使役に特化していたことになるが、農業面における馬の使役は、不可欠といえるほど大きな比重を占めていたわけではなく、やはり石灰などの伝馬継ぎに従事すること、つまり運搬手段としての使役が中心だった。そのため、青梅街道を利用しての石灰輸送量が減少するのにともない、馬の頭数・馬所持率ともに減少していった。では、百姓らはこれらの馬をどのように入手していたのだろうか。