小川村を訪れた馬喰

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近世の小川村には、雄馬しかいなかったので、自分たちで馬を繁殖させることはなかった。そのため、馬の入手方法は、購入に拠らざるをえなかった。
 延宝四年(一六七六)三月、組頭である八郎右衛門ほか四名が小川市郎兵衛に対し、馬の取引について、次のような取り決めを百姓らに守らせると誓った。その一つは、馬売りが参り次第、名主市郎兵衛の了解をえて、馬の毛色や歳、宿の所在、請人や馬主が誰かを記した証文に押印する、馬売りを一人たりとも隠すことはしないというもの。今一つは、馬を買った者も、どこの村の誰から、何色で何歳の馬を、誰の口入(くちいれ)(仲介)で買ったのかを隠すことなく、名主に許可を求め、証文に押印するというものであった。いずれも、馬の売買を、名主市郎兵衛もしくは村の管理下で行わせることを企図した取り決めといえるが、それぞれの条文で注目されるのは、他所から小川村の百姓に馬を売りにくる者がいたこと、また小川村の住人のなかに、彼らに宿を提供したり、取引の仲介をしたりする者がいたと考えられることである。これらの点に留意しつつ、馬の取引のようすを、今少し具体的にみてみよう。
 貞享四年(一六八七)九月、小金井村(現小金井市)の馬主弥右衛門が、小川村の新右衛門に仲介してもらい、同村の作助に馬を売った。その馬は、黒毛の馬で、年齢は一〇歳、丈(たけ)は一寸。弥右衛門はこの黒毛馬の代わりに、作助がこれまで所持してきた、年齢一〇歳以上、丈二寸という栗毛の馬と、「おい金」二分二朱を受け取った(図1-8)。
小川村の入村者
図1-8 小川村での馬取引

 この取引において、作助が弥右衛門に渡した栗毛馬にあたる馬を「下馬」といい、他方、作助が弥右衛門から新しく購入した黒毛馬にあたる馬を「上馬」という。下馬とともに支払われる「おい金」は「追い金」と書くようで、これは上馬と下馬の質の差(=下馬が上馬に質的に劣っている分の価格差)を充当するものである。つまり、作助は、新しく購入する黒毛馬の代金のうち、これまで飼ってきた栗毛馬を弥右衛門に下取りしてもらい、足りない分のみを追い金として、現金で支払っていることになる(史料集三〇、四七七頁)。
 一方、小金井村(こがねいむら)の弥右衛門は、追い金とともに受け取った下馬をさらに、他所で転売していた。作助との取引の例ではないが、弥右衛門が小川村又右衛門に馬を売った際、又右衛門から栗毛馬(年齢一〇才以上、丈一寸)を下馬として取り、加えて追い金二分を受け取った。その下馬の栗毛馬は、貫井村(ぬくいむら)(現小金井市)市郎右衛門に売り渡している。このほかにも、弥右衛門が小川村の仁右衛門から取った下馬の栗毛馬(年齢一〇才以上、丈一寸)を、人見村(ひとみむら)(現府中市)七兵衛に売り渡している事例が確認できる。
 以上のように、小金井村の弥右衛門は、村をこえて、下馬を取ってはその販売を繰り返すという行動をとっていた。これは、牛馬を市で仕入れ、百姓の牛馬と取り替えながら地域をまわる馬喰(ばくろう)のすがたとまさに一致する。したがって、「馬喰」と明記した文書こそないものの、弥右衛門を馬喰とみなすことは可能である。また、弥右衛門以外にも、小金井村・萩野尾村(はぎのおむら)(現武蔵村山市か)、妻沢村(つまさわむら)(現埼玉県飯能市か)、氷川村(ひかわむら)(現奥多摩町)から、小川村へ馬を売りに来ている者が何名か確認できるが、彼らもやはり、馬喰であろう。
 彼らは、恐らく府中(現府中市)の馬市などで馬を仕入れ、百姓が飼っていた馬と取り替えながら各地をまわっており、そのなかで小川村を訪れた。延宝四年の取り決めで言及されている、小川村へ馬を売りにくる者とは、馬喰を指していたのである。このように、当村の百姓たちは、馬喰から馬を購入していたといえる。
 ところで、馬喰たちが小川村の百姓に売った馬は、判明するかぎり、いずれも一〇才を降らない壮齢馬だった。もちろん、なかには五~七才くらいの若齢馬もあったはずだが、当村の家数の八割弱が馬を所持しえていたという事実を踏まえるならば、より安価とみられる壮齢馬の取引は、相当程度の比重を占めていたであろう。