小川村の口入人と馬喰・馬医

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よそからきた馬喰と小川村の百姓の取引を仲介したのが、口入人という存在である。すでにみた小金井村弥右衛門と小川村作助の取引では、小川村の新右衛門という者が仲介者たる口入人となっていた。彼ら口入人の役割は、①小川村へ馬を売りにきた馬喰たちへ宿を提供すること、②小川村の馬の買い手を紹介し、値段設定など馬の取引に意見を加えること、③買い手から馬の代金を徴収し売り手である馬喰に渡すこと、④馬の代金を一時立替えること、⑤取引を仲介した馬が病気になった際には治療にあたること、などであった。
 このように、口入人は、小川村外から訪れた馬の売り手と村内の買い手の取引を仲介し、両者を結び付ける役割を果たしていたが、とくに②取引に際しての意見や、⑤病馬の治療など、その役割は、誰でも果たすことができるようなものではなく、馬についての詳しい知識や技術が不可欠であった。この口入人を勤めたのが、小川村に住む馬喰と馬医(ばい)であった。
 まず、小川村の馬喰は他所からきた馬喰と同様、馬の取引をして村々をまわっていたとみられるが、その一方で、彼らは農業にも従事しており、馬喰稼ぎにより耕作をおろそかにすることは認められなかった。たとえば、小川村の馬喰新兵衛は元禄七年(一六九四)に、母親に迷惑をかけたことともに、農業に励まず、耕地を荒したことが重大な問題とされ、名主小川市郎兵衛の報告を受けた代官から処罰されそうになっている。結局、新兵衛は市郎兵衛と小川寺に預けられることとなったが、この事例から、馬喰渡世は農間余業なのであり、それゆえに馬喰は、馬についての詳しい知識や技術を持ちながらも、百姓として耕作に出精することが求められていたことがうかがえる。
 つぎの馬医とは、一般的に伯楽(はくらく)とも称され、馬の血取り(汚れた血を取る療法)、ひづめの手入れなど、牛馬の病の治療や養生法を行う者たちであり、馬喰とは区別されていたとされる。馬喰にくらべ、医療行為により専門化した人びとといえるが、一七世紀末~一八世紀初頭の小川村にも、こうした馬医が二名ほど住んでいた。そのうちの一人である武兵衛という馬医については、小川村内の病馬の治療に従事していたこととともに、正徳元年(一七一一)段階で三町二畝一九歩の土地を所持していたことが確認できる。馬医も馬喰と同様、百姓として耕作に出精することが求められていたのである。
 以上のように、小川村には、百姓としての性格を基本としつつ、村をこえて馬の取引を展開する馬喰と、病馬の治療行為に従事した馬医が住んでおり、彼らのいずれもが、よその馬喰が馬を売りに小川村を訪れた際は、村内の買い手との間を仲介する口入人となった。
 馬をあつかう小川村内外の馬喰や馬医、およびその口入人としての活動(=取引・治療・仲介)は、当村の百姓たちが馬を入手し、飼っていくうえで不可欠のものであった。それらはいずれも、馬についての詳しい知識や技術を前提としているのであり、誰でも行えるわけではなかった。小川村という新田村落が、単なる畑作農村というだけでなく、伝馬継ぎの村として機能し、存立していくうえで、彼らは固有で不可欠な役割を果たしていたのである。