一七世紀末~一八世紀前半の小川村

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明暦二年(一六五六)からはじまった小川村の開発は、一七世紀末までにほぼ完了し、最後の見取場検地が、享保一八年(一七三三)に行われた。開発の結果、どのような村ができたのか。まずは、村勢要覧ともいえる村明細帳(むらめいさいちょう)をおもな手がかりに、一七世紀末~一八世紀前半の小川村の概況を記述する。
 小川村は、武蔵野に入り会う村の一つで、江戸日本橋から七里(約二八キロメートル)、川越城下から六里(約二四キロメートル)の場所に位置していた。村高は六七二石四斗六升四合、惣反別は三九四町八反四畝一歩。地目は大きく下畑・下々畑・萱畑・屋敷・林畑の五種類からなるが、当村の場合、検地された年が早いほど、同じ地目でも石盛(こくもり)(一反あたりの標準収穫量)が高く設定される傾向が認められる。つまり、早く開発され、検地された土地ほど多くの収穫がある土地だということであり、これは小川村に特徴的にみられる点である。
 村内の寺院は小川寺(しょうせんじ)(臨済宗)と妙法寺(曹洞宗)、神社は神明宮と日枝山王社があり、これらの寺社の地所は、年貢が免除される除地とされた。このほか、当時の村明細帳には、小川寺の所持する堂地一か所、芋窪村石井市正が所持する「天神免」一か所が、除地の適用が留保された地所として書き上げられている。
 小川村にくらす百姓らの負担には、屋敷や耕地に課される本年貢のほか、小物成(こものなり)(山林・原野・河海の用益またはその産物を対象として課される雑税)として、百姓持林二町一反七畝一五歩の用益に課される「山銭」、諸掛物(かかりもの)(付加税)として荏・大豆・六尺給米・伝馬宿入用・蔵前入用、などがあった。
 また、玉川上水に関する負担として、上水両岸の芝地五町歩余の用益に課される「御上水端萱年貢」(金三分と鐚銭(びたせん)五三〇文ずつ)を江戸の町年寄の役所へ、上水から飲み水を引く代価の水料金(金一両ずつ)を玉川清右衛門(たまがわせいえもん)・庄右衛門(しょうえもん)へ、それぞれ納めていた。以上に加え、田無・箱根ヶ崎・平井・所沢・日野・府中・清戸の七か所への伝馬継ぎに従事しなければならなかった。
 戸口・人口は、正徳三年(一七一三)時点で家数二〇五軒、人数九二三人(男四八七人、女四三二人、僧四人)、享保五年時点で家数二〇〇軒、人数八八八人(男四七七人、女四一一人)、享保一九年(寛保三年〈一七四三〉の可能性もある)時点で家数一九二軒、人数九二三人(男四九四人、女四二九人)となり、一八世紀前半段階では家数がやや減少する。
 当村の百姓たちの主要な生業は農業で、大麦・小麦などの穀物や野菜類を作っていた。作物は食料とするほか、江戸や所沢の市で販売し換金した。また、伝馬継ぎに従事し、駄賃稼ぎをした。それ以外の農間余業について、村明細帳では「耕作の外男女の稼ぎ御座無く候」とあるのみであるが、実際には馬喰や馬医といった余業を営む者もいた。
 以上のような小川村を統括する名主は小川家が世襲し、開発主でもある同家の地所六町一畝一〇歩は除地とされた。また、名主給として永六貫文が支給されていた。名主の下には、組頭が置かれ、無給であるが、伝馬諸役を免除された。このほか、触などを伝達する定使(じょうづかい)(鐚銭(びたせん)九貫文余が支給)や、荷物の継ぎ立てを指図する馬指(一人金四両ずつが支給)が置かれ、小川村の村政や宿駅村としての機能を支えた。