つぎに、いくつかの観点から、一七世紀末~一八世紀前半の小川村のすがたを掘り下げてみたい。ここでは、当村の百姓らの生活にも深くかかわる組織である「組」をとりあげる。小川村の組は、年貢収納の単位であり、いずれも組頭により管轄された。組頭の初見は寛文五年(一六六五)で、恐らく前年に仮検地が実施され、年貢徴収がはじまるのを契機に設置された。そのため、組頭の管轄区域となる組も、同じく寛文四・五年頃に設定されていたものと考えられる。寛文九年(一六六九)の総検地をへた時点では、個々の屋敷割(屋敷と畑からなる青梅街道沿いの短冊型地割)を基礎に、村の西側から青梅街道に沿って東方へ組割りをし、計一〇組が成立していたようである。
さらに、寛文九年検地後にひらかれ、延宝二年(一六七四)に検地された屋敷割は、既存の一〇組の東隣に一一番目の新しい組を設定し、これにふくめた。なお、小川村の西端にも延宝二年に検地された屋敷割があったが、いずれも、既存の一〇組のうち最も西側の組にふくめられた。延宝二年検地をへた時点では、一一組が成立していたことになる。以降、新しい組が増えることはなく、延宝二年検地後にひらかれ、天和三年(一六八三)に検地された屋敷割も、一一番目の組に入れられた。
このように、若干の例外はあるが、寛文九年検地後にひらかれた屋敷割は、東端にあった一一番目の組に入れられた。そのため、一一番目の組を構成する屋敷割の数は、寛文九年検地までには成立していた一〇組とくらべ、突出して大きくなった。たとえば、享保六年(一七二一)の時点では、既存の一〇組の屋敷数は一組あたり一五軒前後であるが、一一番目の組の屋敷数は六〇軒に上り、組の成員(組子)数に著しい偏りが生じていた。
また、組を統轄する組頭のなかから、多額の借金を抱えるなどの理由で、組頭を退役する者が出て、一八世紀初頭には組頭を欠く組も現れた。このような組を「明組(あきぐみ)」といい、組頭の実務は名主小川家が代行した。明組は、宝永七年(一七一〇)では二組、享保二年では三組が確認される。
こうした組子軒数の偏りと明組を解消するため、享保七年一〇月、村中で相談の上、当時存在していた八名の組頭に、ほぼ均等に組子を割り付けるかたちで、組を再編、整理した。その結果、小川村の組は一一組から八組となり、各組の組子はいずれも二五~三〇軒程で、ほぼ均等になった。これらの組名は組頭の名からとられ、再編直後の享保一〇年の時点では、西側から五郎兵衛組・長左衛門組・兵左衛門組・八郎右衛門組・善兵衛組・伊右衛門組・源右衛門組・又右衛門組となっていた。ただし、組頭は、自分の管轄する組に住む者ばかりではなく、他の組に住む者もあった。この八組という枠組みは、その後、幕末まで維持された。
なお、今日も用いられている一~八番の組名は、戸長制度が施行され、名主・組頭制度が廃止される明治五年(一八七二)前後から、広く使用されようになったようである。