農業生産の状況

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つぎに、小川村の百姓らの最も基本的な生業であった農業生産について触れる。
正徳三年(一七一三)の村明細帳によると、小川村の畑で作付けされているのは、大麦・小麦・粟・稗・芋(里芋)・蕎麦・菜・大根であった。このほかにも、村明細帳には記されていないが、瓜・うど・荏・大豆などが作付けされていたことが確認できる。ちなみに、現在の小平市の特産物になっている、うどの初見は貞享三年(一六八六)であり、その起源は三〇〇年以前に遡ることになる。これらの作物は、百姓らの食糧(夫食という)とされたほか、最寄りの所沢(現埼玉県所沢市)の市場などに持っていき、販売した。そうしてえた貨幣で、日用品を購入したり、年貢を納めたりした。
 小川村で収穫された作物のうち、野菜類と瓜は、江戸に出荷された。とくに瓜の江戸への出荷については、寛文二年(一六六二)の村方騒動(本節5)における、百姓らの訴状で触れられている。それによれば、小川村では瓜を少しずつではあるが作っており、この瓜を百姓に運ばせ、小川九郎兵衛が指定した江戸の下町と山之手の二軒の瓜問屋に売っていたという。下町と山之手は、江戸を二分する広域対称地名で、前者は低地部でおもに町人居住地、後者は台地部でおもに武家居住地のことで、当時の江戸内部には、これら二つの地域に応じた経済圏があったようである。九郎兵衛が、下町と山之手の二軒の問屋に瓜を出荷させていたのは、こうした江戸内部の地域や経済圏のあり方に深くかかわっていたためと考えられる。また、小川村は新しくひらかれた土地で土が痩せているので、肥料には、武蔵野で採取した秣のほか、江戸から運んだ下肥を使用していた。このように、当時の小川村の農業生産は、江戸との深いかかわりのなかで行われていた。
 しかし、頻繁に不作・災害に見舞われたこともあって、当時の小川村の農業生産は必ずしも円滑に行われていたわけではなかった。表1-9は、一七世紀後半~一八世紀前半における小川村の不作・災害を示したものである。この期間で確認できる小川村の不作・災害情報は全部で一四件。とりわけ、一七世紀末の元禄一二年(一六九九)から享保一九年(一七三四)までの二六年間では一一件と、二~三年に一度の頻度で、何らかの不作・災害に見舞われていたことになる。それにともない、年貢の減免や、夫食が貸与されるなど、幕府による救恤(きゅうじゅつ)がほどこされることも少なくなかった。
表1-9 17~18世紀前半の不作・災害
No.和暦西暦内容減免出典(小川家文書)
1寛文 41664不作C-3 3
2寛文 51665不作C-3 4
3天和 元1681干損(「当酉少雨損場」)史料集13、p.29
4元禄121699風損(家屋倒壊91軒、折木985本、作物損害)史料集18、p.241
5元禄131700不作か(夫食拝借願い)史料集14、p.34
6元禄141701不作(麦作去冬寒気つよく大分ぬけかれ、当正月12日より2月27日迄度々大霜、秋作・粟・稗・蕎麦しめりなく大分やけかれ、はねくいむしからし、7月22日風雨、8月18日大風にて惣作物吹からし)史料集13、p.109
7元禄151702不作(「蕎麦畑不作」)C-1 46
8正徳 41714風損・霜損(「麦霜腐」「風損」)史料集13、p.180
9正徳 51715水損(「水腐」)史料集13、p.185
10享保 51720不作、干損(「近年打続作物損毛仕惣百姓困窮之処就中、去麦作皆損仕、其上秋作ひてりニ而諸作損毛仕候」)史料集18、p.242
11享保131728水損・風損(「当秋作数度之風損之上打続水腐、其上大霜降蕎麦荏等惣而諸作皆損仕・・・」)史料集18、p.245
12享保161731風水損(「当亥度々之風水損」)史料集13、p.290
13享保181733不作(「麦作損亡」)史料集13、p.294
14享保191734水損(「水腐秋作損亡」)I-1 2
『小平の歴史を拓く』(下)p.560の表をもとに作成。

 このように、一七世紀末~一八世紀前半の小川村では、気候不順や災害により、頻繁に不作となっていた。そのため、当時の農業生産はなお安定せず、一八世紀前半に当村の戸口が減少しているように、百姓のなかには離村する者もみられた。