一方、小川家にとって、土地「返進」は避けたい事態であり、小川家が百姓に土地「返進」を思いとどまるよう説得している例も確認できる。すなわち、個々の百姓に、できるだけ屋敷や畑を所持し続け、年貢や役を安定的に負担してもらうことこそ、同家の志向するところだった。それでも、土地が「返進」されると、小川家は、村内外の新たな土地取得希望者を探し、引き渡す(「譲渡」する)ことを目指した。希望者が現れない場合、「返進」された土地は、小川家のもとにとめ置かれることになるが、それは同家にとって好ましいことではなかった。
土地が、それまでの所持者(旧所持者)から新しい所持者(新所持者)に移動するまでの行程を示すと、図1-9のようになる。このような、小川家への土地「返進」という手続きを踏まえた土地移動のあり方は、当村の土地が百姓らの土地であるとともに、小川家の土地でもあったことを示すものにほかならない。すでに述べたように、延宝四・五年(一六七六・七七)の第二次騒動において小川家の地代銭取得特権が否定されたが、当村の土地に対する小川家の所有自体が否定されたわけではなかった。
図1-9 小川家が介在する土地移動 |
村方騒動をへた一七世紀末~一八世紀前半にいたるも、当村の土地の生産力はなかなか上がらず、さらに度重なる不作にも見舞われていた。こうした状況下、百姓が当村に定着するのはなお困難で、それゆえに、屋敷・畑を小川家に「返進」し、離村してしまうこともしばしばであった。しかし、一八世紀中頃~後半になると、生産力や百姓の定着性が高まってくる。それにともない、土地移動の内実も変化し、村内の百姓同士の質流(負債を返済すれば、質草の土地を請け戻すことができる)が中心となり、小川家の果たす役割も、名主としてこれを承認するだけとなった。小川家への土地「返進」や、これを踏まえた土地移動のあり方は書面上・形式上のものとなって形骸化したのであり、天保九年(一八三八)頃には全くみられなくなる。それは、当村の土地に対する小川家の所有が解体し、開発人としての性格が失われていく過程にほかならないが、これらの時期における小川村のようすについては、第二・三章で言及する。