コラム 近世の百姓に苗字はあったのか?

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 近世という時代では、苗字は武士の特権とされ、原則として、百姓(庶民)が公的な場や武士の面前で苗字を用いることは禁じられていた。しかし、このことは、当時の百姓が苗字を持っていなかったことを意味するわけではなかった。そこで、近世の百姓が苗字を名乗っていた実例を、小平市域に残された資料から、いくつか紹介してみたい。
 当時の百姓が苗字を名乗っていたことを示す、市内最古の資料が小川寺の梵鐘(ぼんしょう)である(口絵3)。この梵鐘は、貞享三年(一六八六)に鋳造され、小川寺の檀家である小川村の百姓らが寄進したもので、今も同寺の境内でみることができる。表面には寄進者名が、いくつかのまとまりに分けて刻まれているが、それらにはいずれも苗字が付されている。たとえば、「小川次郎兵衛尉量次、武松惣兵衛、浅見仁左衛門」などとなり、当時の小川村の百姓がどのような苗字を持っていたかを知ることができる。数が多いため、すべての苗字を示すことはできないが、最も標準的な層と思われる百姓が用いていた苗字を抜き出すと、つぎのとおりである。
  小川・武松・浅見・増田・藤野・平沢・川久保・中里・宮寺・若林・宮崎・野村・久下・吉沢・富田・立川・比留間・清水・加藤・向坂・田中・内山・高木・関口・青木・師岡・原嶋・金子・竹内・尾崎
 小川家文書にも、百姓の苗字が記されたものがある。それは、元文六年(寛保元年、一七四一)に作成された「烏帽子名覚(えぼしなおぼえ)」という文書で、これまでにも何度か紹介されてきた。烏帽子とは、元服した男子の用いた袋状の冠りもの。当時、成人のための儀式として、元服する男子に烏帽子をかぶらせ烏帽子名(元服名、成人名)を付ける、ということが行われた。
 「烏帽子名覚」は、この儀式に際し作成された文書で、当年に成人となった者の幼名と烏帽子名が記されている。何人かの例をあげると、八三郎は山口幸八、半蔵は小山幸助、午之助は小川善蔵、亀之助は林惣七と改名している。ここに示されるように、改名後の名前にはすべて苗字が付されており、彼らに苗字があったことがわかる。なお、このほかにも、吉沢・馬場・立川・平沢・若林・金子・宮寺・川窪・清水・酒井、といった苗字が確認できる。

図1-10 「烏帽子名覚」に記された百姓の苗字と名前
元文6年2月(小川家文書)

 以上は、いずれも村の仲間同士の、いわば私的な場面で百姓の苗字が用いられていた例であるが、幕府や大名に対して特別な役目を果たすことにより、苗字の公称を許可されることもあった。そうした役目の一つに、鷹場預り案内(たかばあずかりあんない)がある。小平市域の村々は、尾張徳川家の鷹場にふくまれていた。鷹場預り案内とは、鷹狩りにきた者の案内、鷹場内の見廻りと管理を担当する役職で、前述の小川家や、大沼田新田の開発を主導し名主となった當麻家が、この役職に就いていたことがわかっている。
 鷹場預り案内として執務する際は苗字を公称することができたので、両家の苗字はしばしば文書上に記載された。たとえば、両家のもとには鷹場村々からさまざまな願書が提出されているが、これらのあて名は、「御鷹場御預 小川弥治郎殿」「尾州様御鷹場御案内 當麻弥左衛門殿」などとなっており、両家の苗字が明記されていることが確認できる。このように、村に住む百姓のごく一部には、武士に準じた処遇を受け、苗字の公称を許可された者もいた。
 まとめると、近世の百姓は、誰しもが苗字を持っていた。しかし、一部の者を除き、苗字を公称することは禁じられており、彼らが苗字を用いるのは、私的な場面に限られていた。そのため、彼らの苗字が記録に残されることは少なく、私たちの目にとまりにくくなっているのである。