しかも、これに対応すべき幕府は、六代将軍家宣(いえのぶ)(在職一七〇九~一二)と七代家継(いえつぐ)(同一七一三~一六)の時代を通じて、将軍権力が弱体化し、政治は停滞状況に陥っていた。幕府財政も、五代綱吉(つなよし)(同一六八〇~一七〇九)の時代以後、悪化の一途をたどり、幕臣(軍事・行政官僚)の俸祿(ほうろく)(給料)は遅配となり、旗本の削減も話題にのぼっていた。財政の悪化はまた、国家機能・公共機能(行政サービス)の低下の原因ともなっていた。
この時代、紀州藩の四男から紀州藩主、さらに将軍へと進んだのが徳川吉宗であった。吉宗は、徳川宗家(そうけ)(本家)以外の御三家から初めて将軍となった人物であり、幼少のころから将軍予備軍として育てられた歴代の将軍たちとは、大きく異なる個性の持ち主であった。そして、この特異な経歴こそ、吉宗が先例や格式にとらわれず、自らの意志を前面に打ち出して、政治を主導する重要な要因となっていた。
図1-11 徳川吉宗肖像画
(公益財団法人徳川記念財団所蔵)
将軍に就任した吉宗は、当時三〇〇〇万人といわれる国民の生活の維持・安定へ向けて、大規模な政治改革を断行した。これが享保改革である。その際、吉宗は、自らの主導権を確立し、幕府財政を再建することにより、幕府権力(中央権力)を強化し、国家機能・公共機能を拡大する道を選んだ。すなわち、国民生活を維持・安定させるために、「大きな政府」「強い政府」による国家再編の道を選んだのである。享保改革は、吉宗の将軍就任から延享二年(一七四五)の隠退までの二九年一か月に及んだ。
この時期、小川村の名主小川家では、享保六年以降幕府が発布した法令をまとめている。その内容は、食物などをむだに捨てるようなぜいたくはしないこと、借金を返済せず質物の土地を渡さない不埒者(ふらちもの)は役所に訴えれば罰すること、土地を抵当に借金した場合返済しなくても質流れとはしないことなどであり、その他、新田の測量方法や規定などを示した新田検地条目(しんでんけんちじょうもく)も記されている(小川家文書)。当時の幕府の政策が小川村にも伝えられていたことがわかるのである。
これとは別に、小川家には幕府法令の、寛永二〇年(一六四三)の農村取締令、正徳三年(一七一三)の幕府領取締令、享保七年九月の「新田場之義ニ付御書付」(幕府と藩の開発権を規定した法令)を収めた文書もある(「御定書之内御書附之趣書抜」)。享保一三年二月には、享保改革における関東の唐胡麻(とうごま)育成政策の一環として、代官岩手藤左衛門信猶(いわてとうざえもんのぶなお)の役所による植付奨励もみられる。同年二月八日には、唐胡麻植付希望者への注意事項を知らせ、翌一三年四月には、小川村と廻り田新田、これに小平市域外の九か村の計一一か村が相談のうえ代官岩手の役所にあてて、作付出願人がいるものの、この地域は土地がやせていることを理由に作付免除を願っている。ただし、享保一四年二月には、小川村は唐胡麻を畑六畝に作付けていたことを代官岩手あてに報告している。
また、大沼田新田では、関東における菜種(なたね)育成政策と関連して、延享二年四月に幕府に菜種の出来方を回答し、八月には菜種の公定販売価格などを記している。廻り田新田でも、このとき菜種を育成したと思われる、天保六年(一八三五)八月には、名主忠兵衛、組頭庄兵衛、百姓代七兵衛を含む二〇人が、幕府勘定所に菜種二石三升を上納している。吉宗の享保改革の殖産政策が小平市域でも展開されたことが確認される。
小平市域の村々は、幕府の薬草政策にも関係した。寛保二年(一七四二)八月一八日には、多摩郡大沼田新田の名主弥左衛門と同郡柳窪村(やなぎくぼむら)(現東村山市)の名主が、幕府薬園預りの植村左平次政勝(うえむらさへいじまさかつ)の薬草調査に際し村中を調べ、枸杞(くこ)の実はないが、茜(あかね)はあると、幕府に回答している。同年八月には、武蔵国多摩郡、入間郡、武蔵野領、山口領の幕領・私領の四九か村を代表して、武蔵野領触次(ふれつぎ)(統括役)の小川村名主弥次郎が、薬草を自ら掘り目黒(現目黒区)の薬園(駒場薬園)に持参することを条件に、植村政勝の廻村の免除を出願している。弥次郎の計算によれば、四九か村は総高一万六九四三石一斗九升、薬草量は六六八匁、掘人足は一〇六人余となっている。
吉宗の記録・文書の収集・管理・保存などのアーカイブズ政策と関連して、延享二年に幕府から、「家々に所持候日本の記録・日記類の書籍外題并(げだいならびに)冊数目録致(いた)し」「尤在所の寺社等にも候はば是又吟味候て書き出さるべし」と、家々や寺社にある日本の記録や日記類の調査・目録化が指示されている(史料集三、一〇頁)。
さらに、吉宗は、江戸周辺に行楽地を整備した。江戸東郊の隅田川堤(現墨田区)、北郊の王子飛鳥山(あすかやま)(現北区)、南郊の品川御殿山(ごてんやま)(現品川区)には桜を植え、西郊の中野(現中野区)には桃を植えた。玉川上水沿いの桜並木(現小平市、国分寺市、小金井市)は、吉宗の命令のもと、町奉行と地方御用(じかたごよう)を兼務していた大岡忠相(おおおかただすけ)が指示し、新田世話役の川崎平右衛門定孝(かわさきへいえもんさだたか)が植えたものである。そのほか、小川家文書には、享保六年にはじまる全国人口調査の法令もみられる。
吉宗の享保改革は、小平市域にも着実に及んでいたのである。