享保改革は、武蔵野開発の最終段階でもあった。江戸幕府が編纂した地誌(ちし)『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』には、「武蔵野新田は多磨(たま)、入間(いるま)、新座(にいざ)、高麗(こま)の四郡に跨(またが)りて、昔は茫々(ぼうぼう)たる曠野(こうや)の地なりし」(第七巻一九頁)と、武蔵野新田は、多摩、入間、新座、高麗の四郡にまたがり、かつては、ぼうぼうとした広野であつたことが記されている。すでにみたように、武蔵野の開発は、一七世紀初頭、一七世紀前半~一八世紀初頭の二度のピークがあった。前期開発の小川村は、明暦二年(一六五六)に、戦国大名小田原北条氏の旧臣の子孫で、岸村(きしむら)(現武蔵村山市)にいた小川九郎兵衛が開発し、新町村(しんまちむら)(現青梅市)や砂川新田(すながわしんでん)(現立川市)と同じく、青梅街道の石灰(せっかい)輸送の宿駅(中継地)として成立した。村は、三~五人くらいを一家族として、街道の南北に一~三町規模の、ほぼ均等な短冊型の土地から成っていた。
そして、三度目の開発のピークが、一八世紀前半の享保改革であった。享保七年(一七二二)、幕府は「新田開発奨励」の高札(こうさつ)を江戸日本橋(現中央区)に立てた。この法令は、幕府領と大名領・旗本知行所などの私領が入り組んでいても、新田になる場所がある場合は、代官や領主、農民に相談し、新田開発する計画を立て、絵図や書付に記して、「五畿内(ごきない)は京都町奉行所、西国・中国筋は大坂町奉行所、北国筋・関八州は江戸町奉行所え願い出ずべく候」と、京都、大坂、江戸の三都の町奉行所に出願するよう指示している(『御触書寛保集成』五五号)。町奉行所が、新田開発を奨励したことから、商人による新田開発を事実上公認したともいわれる。一方、代官が申し付けた開発でも、幕府の収入にならず、下々の難儀になる場合は出訴するよう命じている。本来、農政を担当する代官とは別に、町奉行所が新田開発を主導する体制を公示したのである。先の享保七年九月「新田場の義に付御書付」(小川家文書)は、この具体的な規定であった。