大岡忠相と武蔵野開発

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こうした新田政策のもと、享保七年(一七二二)、町奉行(のち寺社奉行)の大岡忠相が地方御用(じかたごよう)(農政担当)を兼務し、支配代官の岩手藤左衛門信猶(いわてとうざえもんのぶなお)を現場の責任者として、武蔵野開発を実施した。この政策は、一〇〇万都市に成長した巨大都市江戸の首都機能を維持・発展するために、江戸への野菜や穀類などの供給地として、武蔵野新田を育成することを目指したものであった。

図1-12 大岡忠相を描いた錦絵(にしきえ)
(「大江因幡助広元 坂東亀蔵」早稲田大学演劇博物館所蔵)

 武蔵野新田は、「水田(すいでん)少く陸田(りくでん)多し、土性は粗薄(そぼ)の野土(のつち)にして糞培(ふんばい)の力を仮らざれば五穀生殖(ごこくせいしょく)せず」(『新編武蔵風土記稿』第七巻一九頁)と、田は少なく畑が多く、土地は痩せていて、江戸の町で発生する下肥(しもごえ)の力を借りなければ穀物は成長しないと記されている。近世後期に、〔江戸←→多摩〕の巨大サイクルが形成されていたことがわかる。
 武蔵野新田を開発したのは、大岡を「御頭(おかしら)」(『高翁家録(こうおうかろく)』)と仰ぐ役人集団であった。この役人集団は、岩手信猶、荻原源八郎乗秀(おぎわらげんぱちろうのりひで)、小林平六、野村時右衛門(のむらときえもん)、田中休愚右衛門喜古(たなかきゅうえもんよしひさ)、蓑笠之助正高(みのかさのすけまさたか)、田中休蔵喜乗(たなかきゅうぞうよしのり)、上坂安左衛門政形(うえさかやすざえもんまさかた)、川崎平右衛門定孝(かわさきへいえもんさだたか)など、浪人、能役者、農民、町奉行所与力などの出身者によって構成されていた。彼らは、幕府官僚機構の中枢かつ最大規模の組織で、治水や農政を担当していた勘定所と競合・対立しつつ、武蔵野新田、相模(さがみ)の酒匂川(さかわがわ)流域(現神奈川県)、上総(かずさ)の東金新田(とうがねしんでん)(現千葉県)などで農政を展開した。
 『新編武蔵風土記稿』には、「享保年間新墾(しんこん)の事命ぜられしかば、遠近となくこれを望める農民等、公に願ひて墾闢(こんけつ)を促せしに、日をつみ年を累ねその功遂(こうつい)に成て、新田八十二村を開けり……検地は元文(げんぶん)元年大岡越前守忠相奉りて時の御代官高(上)坂安左衛門これを糺(ただ)して、貢税(こうぜい)を定む」(第七巻一九頁)と、享保改革の際に大岡が新田開発を担当し、八二か村を開墾し、元文元年(一七三六)に大岡を責任者として、支配代官の上坂(うえさか)により新田検地が行われたのである。この元文検地により、武蔵野新田村々は、幕府に公認されるにいたったのである。
 幕府の開発政策のもと、小平市域には、小川新田、鈴木新田、野中新田善左衛門組、同与右衛門組、廻り田新田、大沼田新田の六つの新田村が成立した。古村の小川村とあわせて、市域の七か村がそろったのである。