「見取場」とは、上野国高崎藩(現群馬県)の郡奉行(こおりぶぎょう)大石久敬(おおいしひさたか)の著書『地方凡例録(じかたはんれいろく)』によれば、「川附或(かわつきあるい)は山附(やまつき)・原地・野方等の空地の場、五畝(せ)三畝充(ずつ)田畑に開発致し作物を仕付るといへども、高に入れざる分を見取場と唱へ、年々出来方を検見(けみ)いたして、取箇(とりか)を申付る故に、新見取あれば村方より訴へ出、又地頭より改め出すこともありて、検地同様反別(たんべつ)を改め、五七年も見取場にいたし置、地馴(じなれ)て後高入(のちたかいれ)になしても、然るべき場処は検地いたし石盛(こくもり)を付け、高に結び入ることなり」と、山林原野の空き地三畝、五畝といった小規模の土地で、すでに耕作をしていても、いまだ高に入れていない非公式な土地を見取場という。毎年、作物の出来方を調べて年貢を取るので、村が訴えたり、支配者が調べたりすることもあった。検地と同じく面積を調べ、五年あるいは、七年間の見取場として支配し、土地が安定したのちに検地を実施し、生産力を測り石盛をつけ、高に結んだことが記されている。
小平市域では、すでに村として成立していた小川村の東部で見取場検地が実施された。享保一八年(一七三三)五月「武蔵国多摩郡小川村見取場検地帳」(小川家文書)は、その際作成された検地帳(土地台帳)である。検地帳の表紙は、図1-13①のごとくである。以下、これをもとに、内容をみていきたい。
図1-13① 検地帳表紙
享保18年5月「武蔵国多摩郡小川村見取場検地帳」(小川家文書)
本文の冒頭は図1-13②のごとくである。
図1-13② 検地帳冒頭
同右
土地一片ごとに、小字名(こあざめい)(南台)、地目(下々畑)、面積(一反五畝六歩)、縦・横の長さ(長さ二六間・横一七間三尺)、土地所持者(市兵衛)、土地の生産高(四斗五升六合)が記されている。耕地に付属する「庚申塚(こうしんづか)」なども書き上げられている。幕府が、検地によってこれらの記載内容を確認し、公認したのである。
この検地帳の末尾には、小川村の見取場の合計が記されている。すなわち、先の『地方凡例禄』でみたように、小規模ではあるが、高一石九斗三升二合、反別七反八畝二七歩が、正式に耕地として認定されたのである。
検地帳には、続けて、六尺一分を一間(約一・八メートル)竿とし、一反を三〇〇歩(約一〇アール)として計算することを記し、さらに、大岡支配代官の荻原乗秀と勘定方役人の村上佐五衛門(師親(もろちか))と清水理兵衛(正種(まさたね))の二人、下役の佐藤庄八、友部丈助、岡本幸左衛門の三人、帳付(ちょうづけ)(書記)の松井小平衛、田辺弁蔵、塚田藤八、羽中彦市の四人、検地の案内人一〇人の名前が記され、それぞれ捺印されている。帳末には図1-13③のように、責任者として勘定奉行の筧正鋪の署名と印がある。幕府の農財政の中枢機構である勘定所により、見取場検地が行われたことがわかるのである。
図1-13③ 検地帳末尾
同右
筧正鋪は、先に下総国(しもうさのくに)飯沼新田(いいぬましんでん)(現茨城県)を開発し、享保一二年に同地域の新田検地を担当している。小川村の見取場検地当時は七六歳、享保改革の前半を支えた農財政官僚であった。
筧のもとに検地役人集団が構成された。現場責任者の代官荻原乗秀は、元禄~享保期の幕府財政を主導した勘定奉行荻原重秀(おぎわらしげひで)の嫡男で、享保五年に上総国(かずさのくに)東金(とうがね)(現千葉県)の新田開発を担当し、元文検地の時期、大岡支配代官として、武蔵野地域の新田育成を担当していた。同じく現場責任者の勘定方の村上師親は、甲府藩主徳川家宣の家臣であったが、彼の六代将軍就任とともに幕臣となり、享保一五年に勘定方となり、同一八年に幕府領の米の出来方を見分している。同じく清水正種は、支配勘定であった。下役は、検地の際に竿(さお)を持つなどの実施者、帳付は書記、案内は現地案内者であり、村役人など村の有力者が多く任命された。
享保一八年五月「武蔵国多摩郡小川村見取場内割反別番附地引帳(うちわりたんべつばんづけじびきちょう)(写)」(小川家文書)は、小川村の農民七人が、見取場検地ののちに、公認された反別(内割)をまとめたものである。末尾には、「右は当見取場内割反別書面の通りに御座候(ござそうろう)、尤此(もっともこ)の帳面に少も相違御座無(そういござな)く候様に銘々(めいめい)畑に札立て置き申し候、勿論境目紛敷(さかいめまぎらわしき)所は双方地主立ち会い杭打(くいう)ち置き申し候、若し此の帳面と相違仕り候粗末成儀(そまつなるぎ)も御座候はば、如何様(いかよう)の越度(おちど)にも仰せ付けらるべく候、以上」と、農民銘々が畑に札を建て、境目のまぎらわしい場所は。両方の地主が立ち会って杭を打ったと記されており、検地のようすがうかがえる。そして、名主弥八以下、組頭八人、百姓代三人の村役人が署名し、「右の通り相認め、御検地御役人様并(ならびに)荻原源八郎様御手代太田幸七殿へも差し上げ申し候」と、検地役人と代官荻原の手代太田幸八に提出している。
こうして、小川村の小規模な耕作地は、勘定方役人が主導した見取場検地によって、掌握・公認されたのである。
この頃、勘定奉行筧の見取場検地は武蔵国の多摩郡、豊島郡、葛飾郡、荏原郡、橘樹郡、新座郡、足立郡、埼玉郡、など各地で行われた(『新編武蔵風土記稿』)。この時期、幕府は、すでに耕作されているわずかな土地をも検地によって掌握し、増税につなげたのである。見取場は、こののち再調査され高入れされた。明和元年(一七六四)一二月「享保以来御高入新田地所御吟味仕出帳(ごぎんみしだしちょう)、享保十八年御高入新田場五ヶ年取米永辻(とりべいえいつじ)書上帳」(史料集一二、三一頁)は、小川村の村役人が、支配代官の伊奈半左衛門忠宥(いなはんざえもんただおき)の役所にあてて提出した開発経過の報告である。
これによれば、下ノ下畑三反五畝一二歩は、見取場検地の際、農家二軒が所持し、高一石九斗三升二合であり、年貢を納めており未開発の場所はない。また、林畑四反三畝一五歩は三軒が所持し、石高八斗七升であり、林畑の名目で年貢を納めているが、村の端にあり猪や鹿が多く、耕作が困難であるため検地当時の林畑のままである。これに続く記述は、明和元年から五年間の年貢米永の書上であるが、末尾で、すでに未開発の土地や荒地はないことを述べている。小川村の見取場開発が、順調に行われたことが知られる。