野中新田善左衛門組の場合、元文元年三月に新田場検地の達があり、「名主・組頭・百姓地所相改め、地引小前帳面相仕立て、早速指し出すべし」と、村役人と農民側が地所を確認し、小前帳を作成し提出すること、および「絵図之儀も我等方にて仕立」と、絵図の作成も命ぜられた(『国分寺史料集(Ⅱ)』、一二二頁)。
元文元年三月二一日には、同じく善左衛門組の組頭喜兵衛が、代官上坂政形に対して願書を提出した。内容は、元文検地の前に、代官上坂から、名主・組頭・百姓の土地を調べ、小前帳を作成し、提出するように命じられた。これをうけて、自分の組は、組頭儀兵衛の組の農民とともに、二度にわたり土地を調べ、小前の反別を計算したが、埒(らち)が明かなかった。そこで、善左衛門に相談し、喜兵衛と組合の農民が立会い、「小前勘定相改帳面」と絵図を作成し、双方が一か所に継印(つぎいん)をして提出することとし、立ち会ってこれらを作成した。私が、善左衛門の所へいき、これらを提出すると述べたが、善左衛門は、絵図と帳面が各二通になるのは好ましくないと渋った。急ぎの御用でもあり、これから作り直すのは時間がかかり大変なので、両方をそのままに提出するよう指示してほしい、というものであった。
これをうけて、上坂役所は、野中新田の名主・組頭・百姓代に対して、絵図は継印し、帳面には番付を付せば差し支えないと回答した。元文検地に先立ち、村々は小前帳と絵図の作成・提出を命じられたのであった。
また、元文元年三月「乍恐以書付奉願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう)」二通は、いずれも、野中新田の寺院と村役人が、検地に先立ち、上坂政形にあてて提出した願書である。
一通は、野中新田の竜蔵院(りゅうぞういん)が神明社(しんめいしゃ)の一反余歩を、もう一通は同じく延命寺(えんめいじ)が寺地・観音堂・墓地・稲荷宮の計五反歩の土地を、検地の際に寺地として認めること、すなわち年貢を免除することを、名主善左衛門以下の村役人とともに願っている(史料集一二、九六頁)。
小川新田の享保二一年(元文元年・一七三六)三月「乍恐以書付奉願上候」も、同「古来(こらい)より武蔵野名高き榎(えのき)」すなわち名木の榎が境内にある村内熊野神社(くまのじんじゃ)の社地一町三反二畝二四歩と、古い石地蔵の堂地一町四反一畝二二歩を、検地の際に免税地とすることを願ったのである(小川家文書)。
さて、大岡支配代官の上坂政形と勘定方役人の長坂孫七郎矩貞(ながさかまごしちろうのりさだ)を責任者とする検地役人集団は、三月二三日に田無村(たなしむら)(現西東京市)に到着し、三月二七日から四月一一日まで小川村に滞在した。四月一一日、柴崎村(しばざきむら)(現立川市)に行き、翌一二日に下小金井村(現小金井市)に到着し、二三日に江戸に戻っている。上坂と長坂は、小川村を「御本陣」とし、「御検地方」役人として、上坂の手代(てだい)の高田喜右衛門、太田縫右衛門(おおたぬいえもん)、石田平九郎、栗田諸助、太田幸七、伊藤文次郎、山口淀右衛門、藤城幸助、秋山仁平治、市川政右衛門、関弥惣治、原伴助、源助、貫助、井上藤蔵、坂本彦六の一六人が書き上げられている(「反別帳之写」『国分寺市史料集(Ⅱ)』、二〇二頁)。彼らは、「御代官上坂安左衛門様御拾六人御手代御新田へ御出役(おんでやく)これ有り、壱組四人つつにて四組にて」と、四人一組で四組が廻村し、「御用宿(ごようじゅく)の儀は小川村へ仰せ付けられ」と、みな小川村に宿泊している(「大検地武蔵野仕用帳控」『国分寺市史料集(Ⅱ)』、二〇五頁)。
図1-14 享保改革期小平市域周辺武蔵野新田図(多摩郡・新座郡・入間郡) |