廻り田新田の元文検地

96 ~ 96 / 868ページ
廻り田新田では、検地に先立ち、本村廻り田村の名主九兵衛らによって、「武蔵国多摩郡廻り田新田内割小前番附地引帳」が作成された(東村山市小町家文書)。これは廻り田新田の「請地(うけち)畑林芝内割小前反別」をもとに、各地所の地目と反別を詳細に書き上げたものである。ここでも、それぞれの地所に札が立てられ、まぎらわしい場所では双方の持ち主が立ち会い境杭を建てるなど、検地を前に準備が行われたことがわかる。また、同じ三月「武蔵国新田御検地に付村より差出候証文写」は、検地にあたって「右場所持主共相談の上案内百姓相極(き)め、名主・組頭・百姓誓詞(せいし)仰せ付けられ候上は、有体(ありてい)に御案内申し上げ候事」と、土地の持ち主が協議して「案内」を選び、名主・組頭・百姓は誓詞を提出し、ありのままに案内するよう命じられている。案内役は、廻り田村の名主の九兵衛と、同村組頭の宇兵衛・半兵衛・源右衛門・武左衛門、百姓代の浅右衛門が勤めている(東村山市小町家文書)。新田内最大の地主の忠兵衛は、案内役に名を連ねておらず、案内役は、名目上の開発主体の廻り田村の村役人が勤めた。
 案内役による予備測量ののち、代官による本格的な検地が実施されたのである。検地ののちには「武蔵国多摩郡廻り田村新田検地野帳(けんちやちょう)」が作られ、最終的に元文元年(一七三六)一一月、大岡忠相の奥印が押された元文検地帳が作成された(斉藤家文書)。
 野中新田に隣接する榎戸新田(えのきどしんでん)(現国分寺市)では、四月に「武蔵野新田御検地相済候に付村方連判証文帳」を、上坂・長坂の両名あてに提出しており、この地域では、検地が三月から四月にかけて実施されたことがわかる(『国分寺市史料集(Ⅱ)』、一二二・二〇二・二〇五頁)。