村々の検地帳

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元文の新田場検地により、小平市域の村々は行政村として公認されることになった。現在、小平市域には、この作成された土地台帳の「元文検地帳」の原本と写本計六冊が残されている。
 a元文元年一二月「武蔵国多摩郡小川村新田検地帳」(小川利雄家文書、写本、四冊のうち一冊欠)
 b元文元年一二月「武蔵国多摩郡鈴木新田検地帳」(深谷家文書、写本)
 c元文元年一二月「武蔵国多摩郡野中新田御検地御水帳写」(円成院文書、写本)
 d元文元年一二月「武蔵国多摩郡野中新田検地帳 善左衛門組」(市役所引継文書、原本)
 e元文元年一二月「武蔵国多摩郡大沼田村新田検地帳」(當麻家文書、原本)
 f元文元年一二月「武蔵国多摩郡廻田村新田検地帳」(斉藤家文書、原本・写本)

 
図1-15 小平市域に残る元文検地帳
a 武蔵国多摩郡小川村新田検地帳
a 「武蔵国多摩郡小川村新田検地帳」より(小川利雄家文書)
b 武蔵国多摩郡鈴木新田検地帳
b 「武蔵国多摩郡鈴木新田検地帳」より(深谷家文書)
c 武蔵国多摩郡野中新田御検地御水帳写
c 「武蔵国多摩郡野中新田御検地御水帳写」(与右衛門組)より(円成院文書)
d 武蔵国多摩郡野中新田検地帳
d 「武蔵国多摩郡野中新田検地帳」(善左衛門組)より(市役所引継文書)
e 武蔵国多摩郡大沼田新田検地帳
e 「武蔵国多摩郡大沼田新田検地帳」より(當麻家文書)
f 武蔵国多摩郡廻田村新田検地帳
f 「武蔵国多摩郡廻田村新田検地帳」より(斉藤家文書)

 
 元文検地は、多摩郡・入間郡など各地で行われ、「新田八十二か村」といわれる村々が成立したが、今日検地帳(とくに原本)はあまり残っていない。それが、右のように、小平市では六か村分が残っている。このうち、原本d~fの末尾には、検地の総責任者である「大岡越前守忠相」の名前が記され、印が押されている。写本であるa~c、fには印がない。文書の形式や紙の質などからみて、b、fは後世に成立したもの、a、cは検地当時に成立したものと思われる。
 今日、これだけ元文の新田検地帳がそろっているのは多摩地域(もちろん全国)でも珍しく、幕府の新田政策や新田村々の実態を知るうえで貴重な史料群である。検地帳には、さきの享保一八年(一七三三)の見取場検地帳と同様、地字、土地の地目、面積、縦横、所持者、生産高、土地に付属する道や土揚場(つちあげば)、社地、庚申塚敷地、死馬捨場などの免税地などが記されている。
 表1-10は、これをまとめたものであるが、全体に畑作が中心で、石盛(こくもり)(生産力基準)は、屋敷の家下庭構が九斗代、雑事畑が七斗代、下田が七斗代、中ノ下田が五斗代、下畑が四斗代、下々畑が三斗代、林畑と野畑が二斗代などと低い。
表1-10 元文検地帳記載内容
代官勘定上坂手代帳付中畑中ノ下畑下畑下々畑林畑野畑下田萱畑家下庭溝雑事畑屋敷高合反別外(免税地)出典
a
小川村新田
上坂安左衛門長坂孫七郎関弥惣治津田伝四郎土井善蔵岩間兵蔵5422797676石1斗8升5合210町0反0畝18歩熊野社地 平安軒堂鋪 庚申塚鋪 死馬捨場小川利雄家文書
b
鈴木新田
上坂安左衛門長坂孫七郎関弥惣治津田伝四郎出井善蔵岩間兵蔵654322797747石4斗5升2合256町3反7畝24歩上分稲荷社地 第六天社地 稲荷社地 宝寿院堂鋪 同墓所 海岸寺堂鋪 同墓所 墓所 死馬捨場深谷家文書
c
野中新田
与右衛門組
上坂安左衛門長坂孫七郎高嶋源助羽中彦市木村伴六三岡助五郎543227397 466石8斗7升7合150町1反6畝15歩円成院堂鋪墓所 死馬捨場 円成院持毘沙門堂鋪 円成院支配国順庵持地蔵堂敷 円成院支配柏禅庵持観音堂鋪 円成院支配東林院持諏訪社地 円成院支配玄要庵持弁天社地 同断同庵持墓所円成院文書
d
野中新田
善左衛門組
上坂安左衛門長坂孫七郎飯塚只右衛門栗田所助須藤太右衛門陶山文吉43229369石3斗2升8合130町4反2畝21歩延命寺堂鋪墓所 観音堂鋪墓所 死馬捨場市役所引継文書
e
大沼田新田
上坂安左衛門長坂孫七郎鈴木幸内福嶋番蔵坂佐平次原田幸内54322797320石8斗3升8合123町9反5畝3歩稲荷社地 寺地 墓所 死馬捨場當麻家文書
f
廻り田新田
上坂安左衛門長坂孫七郎原伴助山口段右衛門萩原宇右衛門山田小兵衛5422107石4斗8升4合40町6反5畝3歩斉藤家文書
各村の元文検地帳より作成。

 現場責任者の代官上坂政形は、大岡忠相のもとで町奉行与力を勤めていたが、享保一七年(一七三二)六月に地方御用を務める大岡の支配代官となり、延享三年(一七四六)に勘定組頭となった有能な農財政官僚である。
 相役の勘定方役人の長坂は、享保六年に勘定方に就任し、関東諸河川の普請を担当し、同一七年に諸国で新田開発を行うなど、農財政に通じた官僚である。検地は上坂手代の関と津田が実施し、帳付(記録)は土井と岩間が担当した。案内人は村の有力者が務めている。六冊の検地帳の記載は、かなりの統一性を持ち、検地が統一的に行われたことが知られる。
 帳末の、間竿(けんざお)と反別の基準の文言(「新田検地仰せ付けられるによって、六尺壱分間を以て、一反三百歩の積(つもり)相極める者也」)や、検地役人の名前列記のスタイルも、同一である。帳末の「右之通り検地相極る者也、大岡越前守」の記載と、大岡忠相の印が特徴的である。