検地後の展開

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検地後、小平市域の村々は、大岡支配役人の川崎定孝の支配となった。元文検地から三年後の元文四年(一七三九)八月、小川新田の名主など村役人は、川崎あてに、「新田場」の開発の実態を「覚」として報告している(小川家文書)。
 これによれば、新田場二一〇町歩余のうち、一五四町余(七三%)が他村からの出百姓の分、五三町余(三四%)が本村の小川村の持添となっている。小川村持添分のうち、二〇町余が畑の名目であり、うち八町余が開発されたが、一二町余は芝地のままになっている。また、一七町余が林畑の名目であり、うち一〇町余は林を植えたが、七町は芝地のままである。残る一四町余は野田である。
 元文新田検地の開発比率は全体の二一〇歩余のうちの一八町余の八%ということになるが、この間、幕府主導のもと、開発が進められていたことがうかがえる。