川崎定孝の桜植樹

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元文検地ののち、新田世話役の川崎は、新田開発と並行して、玉川上水の両岸に桜を植える政策を実施した。これが、今日の「小金井桜」の発端とされる。一九世紀前期に幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』の廻り田新田の項には、「此辺に一条の道あり、小川新田より鈴木新田に達せり、これはかの桜に名高き小金井村へのつゞきなれば、こゝもあまたの桜樹並立(おうじゅならびたて)り」(第七巻二六頁)と、廻り田新田内に、小川新田から鈴木新田に達する道がある、これは桜で有名な小金井村への道であり、ここにも多くの桜樹が並んでいると記されている。近世後期、すでにこの地域が桜の名所として知られていたことがうかがえる。

図1-16 川崎平右衛門肖像画
(複製、府中市郷土の森博物館所蔵)

 しかし、この桜の植樹については、不明な点が多い。まず、いつ植えたのか、さまざまな説がある。
①寛永年間(一六二四~四四)説
 もっとも古い説が、寛永年間説である。文化年間(一八〇四~一八)に美濃(みの)(岐阜県)大垣藩士の大橋方長(おおはしまさなが)が著した『武蔵演路(むさしえんろ)』には、「梶野新田……(頭注)此地桜節は元文(げんぶん)年中台命(たいめい)により植らるゝ処と云、元来は寛永のむかし植させ給ひしを、元文年間に植添(うえそえ)有しと云」(『小金井市史』資料編小金井桜、七八頁)と、桜樹は元文年間(一七三六~四一)に八代将軍吉宗の命で植えられたとされるが、実際は寛永年間に植えられたと記している。
 天保九年(一八三八)に、江戸町名主の斎藤月岑(さいとうげっしん)が著した『東都歳時記(とうとさいじき)』には、「小金井橋の両岸、江戸より七里余也、当初の桜は、寛永の昔植させ給ひ、蕨後(そののち)享保の頃にいたりて、和州吉野山、常州桜川の両種を以て植添らるゝ所也とそ、今は前後の分ちなく、ともに老木となりぬ」(『小金井市史』資料編小金井桜、七八頁)と、最初の桜は寛永年間に植えられ、その後享保の頃に再植され、それが天保期に老木になったと記されている。
 文化元年(一八〇四)三月に、露庵有佐(ろあんゆうさ)が著した『玉花勝覧(ぎょっかしょうらん)』は、「武蔵野多磨郡金橋(こがねばし)のほとりなる桜は、寛永の昔植させたまひしとなむ、又元文の頃うへ添ありけるとかや、今は前後のけちめなく、ともに老木となりぬ」(『小金井市史』資料編小金井桜、一一一頁)と、最初は寛永年間に植え、のち元文の頃に補植したというが、文化元年頃すべて老木となったと記されている。
②承応三年(一六五四)説
 つぎに、承応三年説がある。宝暦七年(一七五七)から天保一四年まで生きた、八王子千人同心(せんにんどうしん)組頭の植田孟紳(うえだもうしん)が著した『武蔵名勝図会(むさしめいしょうずえ)』に、「小金井桜……或云、両岸に桜を植へられしは、桜の実は水毒を消すといふことあり、これに依り、上水堀割の惣奉行松平豆州信綱(ずしゅうのぶつな)侯、県令(けんれい)に沙汰(さた)せられて植えしところなり」(『小金井市史』資料編小金井桜、七九頁)と、桜の実は毒を消す作用があることから、川越藩主で老中の松平伊豆守信綱が、玉川上水を開いたときに命じて桜を植えさせたという。
③寛文一〇年(一六七〇)説
 つぎに古いのが 寛文一〇年説である。肥前(ひぜん)(現長崎県)平戸藩主(ひらどはんしゅ)の松浦静山(まつらせいざん)が文政四年(一八二一)から天保一二年にかけて著した『甲子夜話(かっしやわ)』には、「林語に寛文十年五月の記に、玉川の水道狭(せまき)により三間堀広め、両岸に堤を築き、樹木を植しめられ、徒歩目付(かちめつけ)両人其ことの奉行命ぜられしこと見ゆ、小金井の桜花(おうか)を、享保年中栽せしと世に伝るは誤にて、此時の事なるべし」(『小金井市史』資料編小金井桜、一六〇頁)と、享保年間の植樹を誤りとし、寛文一〇年に堀の幅を広げた際に植えたとしている。
④享保年間(一七一六~三六)説
 つぎは、将軍吉宗が享保年間に命じたとする説である。文政一二年成立の斎藤月岑(さいとうげっしん)『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』には、「この地の桜花は享保念年間(マゝ)《或云元文二年丁巳》郡官川崎某台命を奉し、和州吉野山およひ常州桜川等の地より桜の苗を殖らるゝ所にして、其数凡そ一万余株ありしとぞ」(『小金井市史』資料編小金井桜、八八頁)と、享保(元文)年間に吉宗の命をうけ、川崎が大和吉野山(現奈良県)と常陸桜川(ひたちさくらがわ)(現茨城県)などの桜の苗を植えたことを記している。
 弘化三年(一八四六)に刊行された松亭金水『江都近郊名勝一覧(えどきんこうめいしょういちらん)』も、「享保の頃台命によりて和州吉野、常州桜川等の桜一万株をこの両岸へ植させらる、漸々に絶て今は三百株ばかりを存す」(『小金井市史』資料編小金井桜、九二頁)と、享保の頃、吉宗の命により、吉野と常陸から一万株を取り寄せ、両岸に植えたと記している。
 嘉永七年(安政元年・一八五四)二月三日、幕府代官の勝田次郎は廻状で、「其村々地玉川上水縁通桜木の義は、享保の度におゐて厚御世話もこれ有り植立に相成候」(『小金井市史』資料編小金井桜、三七頁)と、享保年間に植えたと記している。
 安政二年(一八五五)八月「金橋(こがねばし)桜植添」にも、「右桜木の義は、享保の度武蔵野新田開発の砌(みぎり)、川崎平右衛門支配中、和州吉野の桜種を取寄、苗木相仕立……植附皆出来の義は元文二年にて」(『小金井市史』資料編小金井桜、四三頁)と、享保年中に川崎が吉野の桜を取り寄せて植え、元文二年(一七三七)に成長してそろったと記されている。
⑤元文二年(一七三七)説
 享保改革後期、元文新田検地の翌年の元文二年とする説もある。文化一二年正月斎藤鶴磯(さいとうかくき)『武蔵野話(むさしやわ)』(国立国会図書館)には、「元文二丁巳歳、県官(おだいかん)の植置れしは桜実の水毒を消ゆへなりと」(『小金井市史』資料編小金井桜、七五頁)と、元文二年の植林としている。
⑥元文三年(一七三八)説
 元文三年とする説もある。文政一〇年に塩野適斎(しおのてきさい)が著した『桑都日記(そうとにっき)』は、「元文三年、今春御代官川崎平右衛門定孝、栽桜於玉川上水両岸、其間亘数里」(『小金井市史』資料編小金井桜、八六頁)と、元文三年、川崎が玉川上水の両岸に数里にわたって植樹したと記している。
⑦元文年間(一七三六~四一)説
 広く元文年間とする説もある。寛政九年(一七九七)に漢学者の大久保狭南(おおくぼきょうなん)が著した『武野八景(ぶやはっけい)』には、「東西一里の間を、元文中、郡官川崎氏朝命を奉じて桜樹千株を種(う)う、今皆大木と為れり」(『小金井市史』資料編小金井桜、六七頁)と、元文年間に川崎が桜一〇〇〇株を植え、今大木になったとする。
 文化一三年に、山形豊寛(やまがたとよひろ)が著した『江戸図解集覧(えどずかいしゅうらん)』も、「小金井村……元文の頃台命によりて常州花花王のさくら、吉野の苗を栽させり」(『小金井市史』資料編小金井桜、七七頁)と、元文の頃とある。
 文政一〇年岡山鳥(おかさんちょう)が著した『江戸名所花暦(えどめいしょはなごよみ)』も、「金井(こがねい)橋……玉川上水の堤、この桜は元文年間依台命、和州よし野山および常州桜川の種を栽させられける」(『小金井市史』資料編小金井桜、八一頁)と、元文年間としている。
⑧元文~延享年間(一七三六~四八)説
 より広く元文~延享年間とする説もある。幕臣で狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ)が文化五年(一八〇八)に著した『調布日記』には、「そも/\此さくらは、元文のとし、和州吉野、常州桜川の桜のたねを蒔植(まきうえ)よとの欽命(きんめい)ありて、新田掛大岡越前守、新田方川崎平右衛門、本数一万株小川村の地内より千川上水の口まで六十町の間、両岸に植そめて、延享の頃までは年々に御植つぎありしが、其後はその事なきゆへ、年をおひて本数すくなくなれりと云」(『小金井市史』資料編小金井桜、一三四頁)とあり、同じく大田南畝が翌文化六年に著した『向岡閑話(むこうがおかかんわ)』にも、「享保中、和州吉野・常州桜川の桜の実を蒔植よとの公命を奉り、新田掛大岡越前守、新田方川崎氏の掛にて、木数一万株小川村地内より、千川上水口まで六十町の間、両岸に植、元文延享の頃までは年々御植継あり、其後はなきゆへ、年を追て木数滅す」(『小金井市史』資料編小金井桜、一三六頁)と、いずれも元文年間に、吉宗の命をうけて、大岡と川崎が一万本の桜を、小川村地内から千川上水の取入口まで植え、延享頃までに植え継いだが、その後やめたために本数が減ったという。
 文政八年に仲田惟善が著した『東都近郊図(とうときんこうず)』も、「上水の両岸五十余町ノ間、桜樹数百株アリ、是元文年中ヨリ延享ノ頃迄年々官ヨリ植シメラレル処ナリ」(『小金井市史』資料編小金井桜、八〇頁)と、元文年間から延享年間にかけてのこととしている。
⑨寛延年間(一七四八~五一)説
 最も新しい年代は、寛延年間説である。文化一五年に、江戸町人の竹村立義が著した『川越松山之記』には、「寛延年中、御代官川崎平右衛門殿上命を蒙り新橋よりとめはしの先迄凡一里余、千本桜を植、皆単山さくら也、何れも大木なり」(『小金井市史』資料編小金井桜、一五六頁)と、寛延年間に、川崎定孝が一〇〇〇本の桜を植えたとある。
 以上のように、桜の植樹の時期については、寛永年間から寛延年間まで幅広い説がある。このうち、④~⑧は、いずれも吉宗の享保改革の時期であり、享保改革有力説の根拠となっているが、すでに近世において、上水堤の桜の植樹の時期を特定することは難しくなっていたといえる。