①地域振興説
第一は、武蔵野新田地域の振興説である。これは、新田経営にとって大きな打撃となった元文三年(一七三八)の飢饉への対応、そして新田育成のための振興策というものである。
天明八年(一七八八)に川崎の下役の高木三郎兵衛(たかぎさぶろべえ)が著した、川崎の事蹟録(じせきろく)である『高翁家録(こうおうかろく)』には、以下のように記されている。すなわち、代官上坂政形が支配する武蔵野新田は、元文三年に大凶作に見舞われ、夏秋春と作物が実らず、元気な者は江戸や町場・市場に奉公や日雇い稼ぎに出かけ、老人や子ども、足腰の弱い者などが新田に残ったため食物に事欠き、人馬ともに夥しく飢死し、幕府が知るところとなった。上坂は江戸城の奥に呼び出され、将軍吉宗から直々の質問をうけた。上坂は退出し、御頭(おかしら)の大岡忠相に質問の内容を報告したところ、すぐに武蔵野新田に赴き、残っている農民に食物を配るよう命ぜられた。上坂は、その夜府中押立村(ふちゅうおしたてむら)(現府中市)に出かけて米を準備した。翌日、出百姓たちは小金井橋に集まり、各自御救米(おすくいまい)と御救金(おすくいきん)を受け取った。このように、新田経営は困難をともない、農民たちは離散し餓死するなど土地から離れたので、元文四年秋、川崎は実地見分し、新田相続の方法を上申するよう指示された。
同年八月、川崎は矢島藤助を供に、小金井村の勘左衛門、鈴木新田の利左衛門を付添いとし、南北新田村々の村役人たちの案内のもと、出百姓一軒ごとに入念に調査した。川崎は、暮し方、反別、開畑、林植付の状況を調べ、農民の暮らし方を「仁・義・礼・智・信(じん・ぎ・れい・ち・しん)」の五種類に分類し、くわしく帳面に記して報告した。
これらの新田は、みな畑方であり、農民たちは、田方の耕し方は全く慣れていないので、時々廻村して指導をする。畑作では何を作らせるか、雑穀はもちろんのこと、試みに人参・紫草(むらさきそう)(皮膚病薬・染料)・黄苓(おうごん)(解熱・解毒薬)・芍薬(しゃくやく)(鎮痛・正血薬)・信州辛み大根なども作らせ、林は、杉・檜・松・雑木などを試植させる。さらに、関野(せきの)新田(現小金井市)から上鈴木(かみすずき)(鈴木新田)まで、上水堀添の五日市街道付近から江戸道まで約二里(約八キロメートル)の間、上水堀ぎわに桜並木を仕立てた。これは、「差向(さしむき)人出有之、新田賑(にぎわい)之為植付申候」と、当面人出が多くなり、新田賑わいのために植えた、と記している(『小金井市誌』Ⅲ資料編、八三・八六頁)。川崎の下役の記述であるだけに、地域振興説の有力な根拠となっている。
図1-17 川崎の事跡を記した「高翁家録」「御代官川崎平右衛門発起書」
(府中市郷土の森博物館寄託)
②上水浄化説
つぎに、上水浄化説がある。前出の植田孟紳の『武蔵名勝図会(むさしめいしょうずえ)』には、「小金井桜……或云(あるいはいう)、両岸に桜を植へられしは、桜の実は水毒を消すといふことあり、これに依り、上水堀割の惣奉行松平豆州信綱侯、県令に沙汰せられて植えしところなり」(『小金井市史・資料編・小金井桜』、七九頁)と、桜の実は毒を消す作用があるので、当時老中で武蔵国川越藩主の松平伊豆守信綱が玉川上水をひらいたときに、桜を植えさせたという。
また、文化一〇年(一八一三)成立の十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん)『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』には、「されば此川筋の南岸に花王を植しは、春をたのしむにあらず、花散つて桜の実逆流に沈む時は、水毒自然に消除して無病ならしめんが為なり」(『小金井市史・資料編・小金井桜』、一四〇頁)と、桜を植えたのは春の観賞用ではなく、花が散り桜の実が流れに沈む際に、自然に毒を消し健康にいいためである、と記している。
文化一二年正月、斎藤鶴磯(さいとうかくき)は、先に引用した『武蔵野話』において、「桜実の水毒を消ゆへなりと」(『小金井市史』資料編小金井桜、七六頁)と、元文二年に川崎が桜を植えたのは、毒を消すためと記している。
安政二年(一八五五)八月成立の前出「金橋(こがねばし)桜植添」には、「一体桜木の義は、水毒を消し候ものに付、享保度厚御趣意以小金井辺へ御植付これ有り候哉(や)の処、近来追々枯失および候哉に付、御代官にて如何様とも厚世話致候て、享保度の御趣意後世迄残り候様のいたし方はこれ無き哉……桜は水毒を消し候ものに付、花実上水へ落入、おのつから水毒の憂これ無くとの御趣意にて、御恩沢の有り難き事とも、土地のもの共申居」(『小金井市史』資料編小金井桜、四三頁)と、桜が水の毒を消すので、享保年間にこれを植えたと記している。
③堤強化説
第三は、植樹による玉川堤の強化説である。
文化一三年に、山形豊寛(やまがたとよひろ)が著した前出『江戸図解集覧』は、「小金井村……この村にさくら多し、凡五十町斗玉川の流の堤の崩ぬ為に元文の頃台命によりて常州花王のさくら、吉野の苗を栽させり」(『小金井市史』資料編小金井桜、七七頁)と、玉川上水の堤が崩れないように、元文頃に吉宗の命により常州と吉野の桜を植えたという。
また、安政二年八月成立の前出「金橋桜植添」は、「右桜木の義は、享保の度武蔵野新田開発の砌(みぎり)、川崎平右衛門支配中、和州吉野の桜種を取寄、苗木相仕立……上水両縁へ植付候義にこれ有り、数株の桜木繁茂致、根入深く蔓(はびこ)り候得ば、両縁欠崩の憂これ無く」(『小金井市史』資料編小金井桜、四三頁)と、川崎の支配期に桜を植えたが、これは桜樹が根を深くはり、上水の両岸の欠崩を防ぐためと記している。
以上、桜の植樹の理由についても、すでに近世において三つの説がみられ、「金橋桜植添」のように、②・③にまたがるものもあるが、いずれにしても明確な解答を示す史料はないのである。