小平市域史料の桜-将軍吉宗・大岡忠相・川崎定孝-

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植樹の年代・目的ともに不明な部分が多い上水堤の桜であるが、在地の史料で桜に関する最も古いものは、明和九年(安永元年・一七七二)の「御廻状留(おかいじょうどめ)」に収められている八月一七日と一九日の羽村陣屋(はむらじんや)(現羽村市)の普請方からの指示である。
 一七日は、廻り田新田内の桜木二本が折れ、払い下げになることを告げている。枝が折れている場合は枝だけを伐り、中折れの部分は根から伐り取ること、根まで返っている場合は根から掘り起こすことが指示されている。伐られた木は、入札方式で払い下げるので、希望者は場所を見立てて入札するように触れている。
 一九日は、前者の廻状が滞り、募集した入札希望者がいないことを叱る内容になっている。この桜は、「吹折」と表現されていることから大風による枝折と判断される(史料集七、一頁)。
 享和三年(一八〇三)頃に、野口村(のぐちむら)(現東村山市)在住の八王子千人同心(せんにんどうしん)の小島文平が著した「(玉川上水起元并に野火留分水口之訳書)」は、「(川崎)平右衛門殿官命にて和州吉野・常州桜川等の桜の実を蒔き、上鈴木新田より(梶)野新田の辺迄御上水の両縁へ壱里二十四町の内に植、利左衛門に実を蒔(まき)、苗を仕立植しが、是は有徳院(ゆうとくいん)(将軍吉宗)様御内々好せられ、上意なれは、新田掛りの町奉行大岡越前守殿差図にて植しと承り候」(『小金井市史』資料編小金井桜、一六頁)と、吉宗の「内々……上意」と、内命を受けた新田掛(しんでんかかり)(地方御用)の大岡忠相が「差図」し、川崎が鈴木新田の利左衛門に指示して、上鈴木新田から下流に植えさせたとある。
 文政一二年(一八二九)三月一五日には、尾張家鷹場役所の水子陣屋(みずこじんや)(現埼玉県富士見市)の鳥見が、鷹場預り案内の榎戸源蔵と當麻弥左衛門(たいまやざえもん)にあてて、「御用人衆近日の内小金井桜見物差鳥見物の為め相越され候、付ては当日各方御苦労ながら御案内の為め保谷新田所持境迄御出迎ひ御座候様申来候、仍て内意申進候、又々日限も治定の次第に達辞申すべく候」(史料集二二、三三頁)と、尾張家の御用人たちが近日小金井桜を見物にくることを知らせ、鷹場預り案内は、保谷新田の境まで出迎えるよう指示している。ここでは「小金井桜」の表現がすでに成立していること、尾張家の役人も桜見物にきていることが知られる。
 弘化二年(一八四五)三月一〇日、支配代官の江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)は、支配村々にあてて二つの法令を出し、「花盛の節御府内市中より出候見物人は勿論、地元村の百姓の内にも枝を折り、甚だ敷く心得違いのものに至り候ては右を売買いたし」と、玉川上水の桜について、盛りのころ見物人や地元の農民の間で枝を折る者がいる、はなはだしい者はこれを売っている、この桜は、享保のころに世話をした樹木で、今後は油断なく気をつけ、万一猥りに枝を折る者がいたら厳しく制するよう指示している。さらに、地元農民だけでなく、江戸市中から見物にくる人についても記されている(史料集七、三二五頁)。
 弘化二年三月には、下小金井新田などを支配していた代官の築山茂左衛門の役所から、「玉川上水縁通左右の桜の儀、花盛の節御府内市中より出候見物人は勿論、地元村々百姓の内にも枝を折、甚敷心得違(はなはだしきこころえちがい)ものに至り候ては、右を売買致候類もこれ有る哉の趣に相聞、不埒(ふらち)の至り候、右は享保度公儀におひて厚く御世話もこれ有り、御植立置かれ候儀にて、殊に御成これ有り候場所に候は、上水通り住居致候者共、向後(こうご)無油断心附、万々猥(みだり)に枝を折候ものこれ有り候はば、厳重に相制候様可致候」(『小金井市史』資料編小金井桜、二八頁)と、玉川上水の花見の際に、江戸市中から来た者や地元の農民が桜の花を折り、ひどい者は桜を売買している。時々将軍家の御成りのある場所なので、上水沿いに住む者はもちろん、他村の者も油断せずに気をつけ、もし枝などを折る者がいた場合は、これを厳しくやめさせるよう指示している。
 さらに、嘉永七年(安政元年・一八五四)四月三〇日、代官の勝田次郎充にあてた願書には、「一体右場所の義、承応年中より武蔵野新田開発相始め、元文元辰年同新田一円御検地の砌(みぎり)、御上水縁より五間手前迄村々左右不残畑請相成、右御上水より畑へ付候弐間通りは往還、御上水へ附候三間通りの土揚場(つちあげば)へ芝野永御取箇(おとりか)仰付けられ、右場所へ桜木御植立相成、其砌りは御取永も聊の義桜木間へ生茂候芝草刈取、御年貢上納仕候義の処、御取箇は近年相増候上、土揚場三間の場所追々御上水へ欠入(かけいり)、当時は土手巾(はば)壱弐間之場所のみ多、殊に桜木追々御植増被仰候に付、農隙見斗(みはからい)申合、無懈怠(けたいなく)植付仕、右場所芝野生茂候ては盛木の障に相成候に付、時々刈捨候間、聊も御年貢足合相成べき品御座無く」(『小金井市史』資料編小金井桜、三八頁)と、元文検地の際に上水淵から五間(約九メートル)手前の場所はすべて畑となり、畑側の二間(約三・六メートル)の通りは道とし、上水側の三間(約五・五メートル)の土取場には芝野永(しばのえい)の名目で年貢を仰せつけた。そこに桜樹を植え立てさせ、取永もわずかながら徴収した。桜樹の間の芝草を刈り取り、年貢を上納してきたが、近年増税され、土揚場は徐々に上水に欠け落ち、もとは三間だった土手幅が、今や一、二間となった場所も多い。とくに追々桜樹の増植を命じられたことから、農業の合間にも怠惰なく植え付けている。芝野が茂ると木の成長の妨げになるので、時々刈り捨てているが、年貢の足しにもならない、と記している。

図1-18 「玉川上水緑桜植立絵図」の小平市域のようす
(府中市郷土の森博物館寄託)

 安政三年三月「御上桜諸入用四ヶ村割合帳」によれば、梶野新田、下小金井新田(いずれも現小金井市)、境新田(現武蔵野市)の四か村が、桜御用杭、桜苗木植付御出役雑用、筆墨代などの費用を割り合い、負担している(『小金井市誌』Ⅱ資料編、三四九頁)。
 玉川上水堤の桜は、流域農民の規制と負担のもとで成長し、「小金井桜」として江戸および近郊の人びとの間に広く知れわたっていくのである。
図1-19
図1-19 昭和30年頃の小金井橋(庄司徳治氏所蔵)

 以上、享保改革の諸政策、とくに新田開発により、小平市域には、近代につらなる六か村が成立し、古村小川村を合わせて七か村になった。これらの村々は、こののち近世を通じて首都江戸との関係を強め、首都圏としての性格を色濃くしていくことになる。