小川村の開発人である小川家は、同村の開発がほぼ終了すると、元禄一五年(一七〇二)一一月・宝永五年(一七〇八)一一月・正徳六年(享保元年、一七一六)閏二月に、さらなる開発を幕府役人に願い出た。元禄一五年の小川政右衛門(おがわまさえもん)の開発願いによれば、その場所は小川村の東側にある武蔵野の入会地(「東の原」)で、広さは六〇〇町歩におよぶものであった(史料集一二、一四頁)。続く小川九市郎(おがわくいちろう)、弥一郎(やいちろう)による宝永五・正徳六年の開発願いも、やはり同じ場所七〇〇町歩余を対象とするものであった。
このときの幕府は、急速な新田開発を抑え、すでにできあがっている田畑(これを本田畑という)をより効率的に利用しようという方針をとっていた。そのため、小川家の再三にわたる開発願いも容れられることはなかった。しかし、幕府財政再建のための増収策として、再び新田開発が奨励されるようになる。享保七年(一七二二)九月付けで、諸国の幕府領の百姓らに発せられた、吟味のうえ支障がなければ開発を命じるという情報に接した小川弥市(おがわやいち)は、すぐさま開発願いを作成、提出した。
それは、小川村の東側の地続きの場所およそ一六〇町歩を開発したいというものであった。開発対象となる場所はこれまでと同じであるが、広さは五分の一に縮小されている。弥市の計画は、この土地を三年で残らず開発し、その間は本来の年貢・諸役の代わりに、毎年金二〇両を芝年貢として上納するというものであった。
弥市によれば、これまでたびたび開発を願ってきた、小川村の東側の地続きの場所は、本来小川村として開発される予定であった。しかしながら、御用石灰(ごようせっかい)の伝馬継ぎ(てんまつぎ)などで忙しく、開発が進められないでいるうちに、武蔵野周辺の村々による秣場騒動(まぐさばそうどう)が起こり(本節6)、武蔵野の境が定められてしまった。そのため、さらなる開発が不可能となってしまったという。すなわち、弥市をはじめ、小川家の歴代当主たちによる再三の開発願いは、もともと小川村の開発予定地だった場所を、改めて開発しようとするものであり、小川村の開発人である小川家にとっては、まさに宿願ともいえる事業だった。