同じ頃、小川家とは別に、小川村からも開発願いが出されたようである。小川村からの開発願書は残っていないが、村としての開発願いが出されていたことは、小川村と代官岩手藤左衛門信猶(いわてとうざえもんのぶなお)とのやりとりのなかからうかがうことができる。
岩手は、武蔵野が開発された場合、秣の採取はどうするかを小川村に質した。岩手の諮問に対し、小川村の村役人たち(名主(なぬし)・組頭(くみがしら))は、享保八年五月に申上書を提出した。それによれば、当村が願った通り開発場をくだされば、そこにひらいた畑の風除けとして林・芝地などを設けることとし、これらにも相応の年貢を課してもらえればありがたく思う、そうしてこの場所で秣を採取すると述べている。
また、同じく享保八年五月四日付けで、岩手より新田開発に対する何らかの触が出された。その際、小川村の百姓たちは、この触を拝見し、内容につき承知したことを、恐らくは同村の村役人らに対して確認している。そこには、小川村より願い出ていた開発は、この村の地先のことであるので、小川弥市をはじめとする村役人から開発を願い上げてほしいという記述がある。
このように、小川村と代官岩手信猶との間で交わされたやりとりは、小川村が「村」として地先の開発を願い出ていることが前提となっている。したがって、享保八年五月までには、弥市のみならず、小川村としても開発を願い出ていたことになる。とはいえ、小川村がどこを、どのような計画で開発しようとしたのかを直接知ることはできない。