開発地の割り渡し

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小川弥市と小川村の開発願いは、いずれも許可された。そして、享保九年(一七二四)五月、代官岩手信猶から開発地が割り渡された。その際の証文は、開発願いに応じて二通に分かれており、一通は「願人」弥市あて、もう一通は小川村の名主・百姓あてとなっている。例として、弥市あての証文を少し詳しくみてみよう(図1-20)。

図1-20 小川弥市宛の開発地割渡証文
享保9年5月「武蔵野開発反別割渡之事」(史料集13、p.317)

 この証文には、小川村(「小川新田」)の「願人」小川弥市が開発を願った、広さ一六〇町七反歩の場所を開発用地として割り渡すこと、そして、享保九年より同一一年までの最初の三年間は、毎年一反あたり一升五合の「役米」を年貢の代わりに上納しなければならないこと、が書かれている。小川村名主・百姓にあてられたもう一通の証文も同文であるが、村に割り渡された開発用地の広さは、七五町七反歩である。これも、弥市の場合と同様、小川村が開発を願い出た反別に対応しているものと考えられる。このように、小川新田の開発は、弥市が個人で請け負うかたちと、村が請け負うかたちの二通りの方式で行われた。