「出百姓分」と「持添分」

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さきに述べたように、小川新田は、小川弥市が個人で開発を請け負った場所と、小川村が村として開発を請け負った場所の二つの区域からなっていた。両区域のうち、前者は当地に居住する出百姓(入村者)を集めて開発されたので「出百姓分(でひゃくしょうぶん)」、後者は小川村の百姓らが旧来の自分たちの土地に新たに加えるかたちで開発されたこと、また当時用いられた呼称に鑑みて「持添分(もちぞえぶん)」と呼ぶことにする。
 出百姓分と持添分の位置・範囲を示すと、図1-21のようになる。本図に示されるように、出百姓分は、現在の仲町・学園東町・喜平町にあたる。一方、持添分は、現在の上水新町・上水本町の一部にあたる、玉川上水の南側から小川橋までの帯状に細長く伸びた場所と、現在の学園西町の一部(一橋大学小平国際キャンパス・放送大学東京多摩学習センターの辺り)にあたる、玉川上水の北側の場所からなる。以下、これら出百姓分と持添分という二つの区域の開発のされ方や構成について、詳しくみていくことにしたい。
小川新田「出百姓分」と「持添分」
図1-21 小川新田「出百姓分」と「持添分」