持添分の開発事情がよくうかがえるのが、享保一六年名寄帳である。名寄帳とは一般に、個々の百姓が所持する土地を、所持者ごとにまとめた帳面をいうが、この享保一六年名寄帳には前半に持添分、後半に出百姓分の記載がある。そこで、前半の持添分に注目すると、個々の百姓が所持している土地反別の多くが、三反一九歩という大きさを基準としていることが確認できる。このことは、持添分の土地がもともとは、小川村の百姓たちに三反一九歩ずつ分けられたことを示すものである。分けられた土地のなかには、三反一九歩よりも小さなものや、大きなものもいくらかあったようであるが、原則的には、持添分の土地は小川村の百姓たちに均等に分けられたといえる。
しかし、名寄帳が作成された享保一六年時点では、持添分の土地を所持する者は一〇八名で、当時の小川村の百姓数の半分ほどであり、所持地の大きさにも差が生まれ、一町を超える土地所持者も現れている。このことは、小川村百姓のなかには、分けられた持添分の土地を早々に手放してしまう者が多くいたこと、その一方で、残りの百姓のなかには、これらの手放された土地を譲り受ける者がいたことを示す。このように、享保一六年名寄帳からは、持添分の均等分割の原則が早々に崩れていったようすがうかがえる。
持添分において均等分割の原則が崩れたことは、開発の進展に極めて深刻な影響をもたらした。この点について考えるため、まずは享保一六年名寄帳の五年後に作成された、元文検地帳の内容を確認しておこう。同帳によると、持添分にあたる字「上水向」「上水内」の土地を所持している小川村の百姓は九八名で、享保一六年時よりもさらに人数が減少し、地目構成は、図1-22のようになっている。
図1-22 持添分の地目構成 |
この図から、持添分の反別のうち林畑・野畑が約六割を占めること、他方、中下畑・下畑のように畑とされる地目が四割弱を占めていることがわかる。屋敷が全くみられないことは、「上水向」「上水内」という場所が、旧来の自分たちの土地に新たに加えるかたちで開発されたことをよく反映しているといえるが、グラフに示された林畑や畑(中下畑・下畑)の比重や反別は、実際とはかけ離れたものであった。
元文検地より三年後の元文四年(一六三九)八月、小川村名主弥次郎(やじろう)ほか組頭二名・百姓代(ひゃくしょうだい)一名は、持添分の開発状況を川崎平右衛門定孝(かわさきへいえもんさだたか)に上申した。その際の覚書によれば、元文検地で「畑」(中下畑・下畑)とされた二〇町二反六畝九歩のうち、実際に開発されたのはおよそ八町歩で、残るおよそ一二町二反六畝九歩は未だ「芝地」である。また、林畑についても、元文検地で一七町八反八畝一五歩とされたうち、実際に木々が植え付けられたのはおよそ一町八反八畝一五歩で、残るおよそ七町歩は、やはり手つかずのまま「芝地」となっていたことが報告されている(史料集一二、二九頁)。
すなわち、持添分の開発は、必ずしも順調に進んだわけではなかった。このことは、多くの小川村百姓が分けられた土地を手放し、それを残る者たちで引き受けた(引き受けざるをえなかった)結果、持て余し、畑の開墾や木々の植え付けに遅れが生じていたことを示すものといえる。元文検地が、未開墾で木々も植え付けられていない「芝地」を畑や林畑として登録したのは、こうした状況に対し開発を促すためであった。