「出百姓分」の構成

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以上のように、各所から出百姓を募り開発された出百姓分は、元文元年(一七三六)検地の結果、図1-23のような地目構成となっていた。当地は居住を前提として開発されているため、持添分(図1-22)とくらべると、やはり屋敷が存在すること、また屋敷・耕地(下田・中下畑・下畑)と林畑・野畑とがそれぞれ、総反別の半分ずつを占めていることが特徴的である。さらに、耕地のなかには田(下田八反六畝一五歩)のあることが注目されるが、そのほとんどは小川弥次郎の所持地であった。ここから、同家が小川新田開発に乗り出したねらいの一つに、田の確保があったことがうかがえるが、宝暦九年(一七五九)の村明細帳(むらめいさいちょう)によると、これらの田は水不足による芝地となっている。

図1-23 出百姓分の地目構成

 出百姓分の中は、三つの地区に分かれているが、出百姓らが住んでいたのは、現在の仲町にあたる、青梅街道の両側に沿った地区と、現在の喜平町にあたる「山家(さんや)」(「三家」ともいう)という地区である。前者の地区のうち青梅街道の北側は、元文検地帳で字「宿並北側」と記されている。南側は検地帳が残っていないが、当時の字名は「宿並南側」と考えられる。一方、後者の山家地区の当時の字名は「南新田」である。これら両地区には、いずれも短冊型の屋敷割ができ、出百姓らは当地に住み、その地割内の耕地や野畑・林畑を所持している。
 両地区の間、現在の学園東町にあたる場所は「外田(とでん)」という地区で、当時の字名は「榎尻」・「中平」といった。そこには、屋敷がなく、耕地や野畑・林畑が広がっていた。これらは、特定の屋敷に付属するものではなかったため、青梅街道沿い・山家両地区の住民や、小川村の百姓により所持されていた。さきに述べた元文四年の「南北武蔵野出百姓草分書出帳」で、「持添」一八軒とあるのは、この外田地区に土地を所持する小川村の百姓らを意味するもので、開発当初は屋敷割を取得する同村の百姓もいたが、元文検地までには、その所持地は「外田」地区に、ほぼ限定されるようになったと考えられる。
 以上を踏まえ、元文検地帳が残る、青梅街道の北側(宿並北側)および山家(南新田)に住む出百姓の所持反別階層構成を示すと、表1-12のようになる。宿並北側に住む者のなかで、二町歩以上の土地を所持しているのは小川弥次郎ただ一人で、同人が一〇町二反四畝歩もの土地を所持していることを除けば、いずれの場所に住む出百姓にも極端に零細な者はなく、ほとんどの者が一~二町歩の土地を所持していることがみて取れる。住民間で、所持する土地の広狭に大きな差がないという意味で、新田村らしい、比較的フラットな構成といえる。
表1-12 小川新田階層構成(宿並北側、南新田)
所持反別宿並北側南新田
2町~15
~2町28
~1町5反248
~1町11
~5反00
合計2822
単位:人
元文元年12月「武蔵国多摩郡小川新田検地帳」(小川利雄家文書)より作成。