図1-23 出百姓分の地目構成
出百姓分の中は、三つの地区に分かれているが、出百姓らが住んでいたのは、現在の仲町にあたる、青梅街道の両側に沿った地区と、現在の喜平町にあたる「山家(さんや)」(「三家」ともいう)という地区である。前者の地区のうち青梅街道の北側は、元文検地帳で字「宿並北側」と記されている。南側は検地帳が残っていないが、当時の字名は「宿並南側」と考えられる。一方、後者の山家地区の当時の字名は「南新田」である。これら両地区には、いずれも短冊型の屋敷割ができ、出百姓らは当地に住み、その地割内の耕地や野畑・林畑を所持している。
両地区の間、現在の学園東町にあたる場所は「外田(とでん)」という地区で、当時の字名は「榎尻」・「中平」といった。そこには、屋敷がなく、耕地や野畑・林畑が広がっていた。これらは、特定の屋敷に付属するものではなかったため、青梅街道沿い・山家両地区の住民や、小川村の百姓により所持されていた。さきに述べた元文四年の「南北武蔵野出百姓草分書出帳」で、「持添」一八軒とあるのは、この外田地区に土地を所持する小川村の百姓らを意味するもので、開発当初は屋敷割を取得する同村の百姓もいたが、元文検地までには、その所持地は「外田」地区に、ほぼ限定されるようになったと考えられる。
以上を踏まえ、元文検地帳が残る、青梅街道の北側(宿並北側)および山家(南新田)に住む出百姓の所持反別階層構成を示すと、表1-12のようになる。宿並北側に住む者のなかで、二町歩以上の土地を所持しているのは小川弥次郎ただ一人で、同人が一〇町二反四畝歩もの土地を所持していることを除けば、いずれの場所に住む出百姓にも極端に零細な者はなく、ほとんどの者が一~二町歩の土地を所持していることがみて取れる。住民間で、所持する土地の広狭に大きな差がないという意味で、新田村らしい、比較的フラットな構成といえる。
表1-12 小川新田階層構成(宿並北側、南新田) | ||
所持反別 | 宿並北側 | 南新田 |
2町~ | 1 | 5 |
~2町 | 2 | 8 |
~1町5反 | 24 | 8 |
~1町 | 1 | 1 |
~5反 | 0 | 0 |
合計 | 28 | 22 |
単位:人 | ||
元文元年12月「武蔵国多摩郡小川新田検地帳」(小川利雄家文書)より作成。 |