村役人制度

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以下では、小川新田の出百姓分に着目して、当新田の人びとのくらしのようすをみていこう。まず、小川新田を統括する村役人制度からとりあげると、出百姓分には開発当初から独自の組頭が置かれていたようである。たとえば、享保一五年(一七三〇)では又七と長右衛門の二名、元文元年(一七三六)では又七・甚兵衛・与五右衛門の三名、明和八年(一七七一)では甚左衛門・源左衛門・八左衛門の三名が組頭として確認でき、彼らは、いずれも出百姓分に居住する百姓である。
 組頭は、出百姓分のうち青梅街道沿いと山家の二つの集落から出されていたとみられ、元文元年までには、青梅街道沿いの集落から二名、山家集落から一名が組頭に就任することになっている。当初の組頭は短期間で変化するようであるが、一八世紀後半の明和年間(一七六四~七一)頃には、森田家もしくは大沢家、並木家(以上、青梅街道沿い)、滝島家(山家)に固定されている。
 一方、元文五年までは独自の名主が置かれず、小川本村名主(小川家)が新田の年貢収納実務を取り仕切っている。たとえば、享保一三年一一月、新田開発方役人の野村時右衛門(のむらときえもん)と小林平六(こばやしへいろく)は、小川村持添分(「武蔵野開発場」)七五町七反歩、出百姓分(「弥市開」)一六〇町七反歩に対する前年分の年貢の受取証(年貢皆済目録(ねんぐかいさいもくろく)という)を小川本村の名主・組頭・惣百姓にあてて出しており、しかもそれは小川家文書として伝存している(史料集一三、三一八頁)。このことは、年貢収納に関する他の文書(年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)など)にも共通し、小川村持添分・出百姓分両方の年貢収納実務が、本村名主の下で行われていたことを示すものである。独自の組頭が配置されてはいるものの、開発期の新田出百姓分は、本村の強い影響下にあったのである。