年貢収納状況

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つぎに、小川新田の年貢収納状況から、開発期の出百姓のくらし向きをみていこう。表1-13は、享保九年~元文五年(一七二四~四〇)までの小川新田の年貢収納状況を示したものである。期限内に完済された年は「」、期限よりも遅れた年には「△」を付けてある。なお、担当役人による年貢皆済の確認がやや遅く、年貢収納が円滑に進まなかったと考えられる年には「△?」を付けた。
表1-13 小川新田年貢収納状況
年代米(石)永(文)収納担当役人備考
享保 9(1724)37.48625704.07岩手信猶開発場役米
享保10(1725)37.483431009.02岩手信猶開発場役米
享保11(1726)37.486329989岩手信猶開発場役米
享保12(1727)47280△?野村時右衛門・小林平六享保13年11月皆済
享保13(1728)47280野村時右衛門・小林平六享保16年12月皆済
享保14(1729)0.387850389.03野村時右衛門・小林平六享保16年12月皆済
享保15(1730)31670.03△?岩手信猶享保16年12月皆済
享保16(1731)31527.02岩手信猶享保18年11月皆済、内夫食返納・夫食麦代返納永2284.6文を含む。
享保17(1732)34324.02△?上坂政形享保18年11月皆済、内夫食返納・夫食麦代返納永2454.6文を含む。
享保18(1733)32070△?上坂政形享保19年12月皆済
享保19(1734)29175上坂政形
元文元(1736)33471.4上坂政形内「卯(享保20)より卯迄弐拾五ヶ年賦返納」を含む。
元文 3(1738)44642.5上坂政形内「卯より卯迄弐拾五ヶ年賦夫食返納」「巳(元文2)より寅迄拾ヶ年賦卯未進」を含む。
元文 5(1740)47475.2上坂政形内「卯より卯迄廿五ヶ年譜夫食返納」「巳より寅迄拾ヶ年賦卯未進」「申(元文5)より戌迄三ヶ年賦夫食返納」「申(元文5)より寅迄七ヶ年賦麦種代返納」を含む。
*各年の年貢皆済状より作成。
*永額のうち、厘以下は切り捨て。また、歩永・口永は除く。

 以下、支配役人の変遷に沿ってこの表を読むと、まず、代官岩手信猶が支配にあたった享保九~一一年の三年間は鍬下年季といって、年貢が免除されているが、その代わりに「開発場役米」が課されていた。開発場役米は、米にして三七石余り(永では二五~三〇貫の間を変動)だが、小川新田では遅滞なく完納した。
 鍬下年期の三年が過ぎた享保一二年からは、野村時右衛門・小林平六が担当役人となり、通常の年貢が賦課されるようになる。前年の開発場役米は永二九貫九八九文だったが、享保一二年の年貢は永四七貫二八〇文で、大幅に増加している。この時の担当役人である野村・小林は、享保一三・一四年に家作料(かさくりょう)・農具料(のうぐりょう)を出百姓に支給するなど助成策を打ち出す一方で、過酷な年貢徴収を行なった。その結果、各地で年貢の滞納が起こり、享保一四年に処罰されている。小川新田でも、野村・小林が担当役人となった享保一二年以降、しばらく年貢の滞納が起きており、数年遅れでようやく完済するという状況に陥った。
 野村・小林が処罰された後、享保一六年以降は代官岩手信猶、そして上坂安左衛門政形(うえさかやすざえもんまさかた)の管轄となった。岩手や上坂が小川新田の支配を担当するようになった最初の五年程は、年貢額が永三〇貫前後の水準まで引き下げられている。そして、元文三年より年貢額は徐々に増やされ、永四〇貫をこえるようになり、以降はこの水準で固定される。代官上坂が支配を担当した時期は、各地で、元文元年検地が実施されるとともに、公金貸付制度を導入した新たな新田育成資金の創設など、「新田育成政策」が展開された。こうしたなかで、小川新田の年貢収納状況は改善されていったが、備考欄に示したように、幕府よりの夫食(食料)の貸与や種貸しといった助成を度々受ける必要があった。
 以上のように、小川新田の年貢収納状況は、支配担当役人の施策や方針に大きく左右されながらも、代官上坂の下で安定化していく傾向にあった。しかし、一方で、幕府による救済が頻繁に実施されており、開発期の出百姓らのくらしは、元文元年検地をへてもなお、不安定な状況を脱し切れていなかった。