そのため、出百姓の中には土地を手放し、離村してしまう者もいた。彼らは、土地を手放す際、小川家に土地を返す(「返進」する)という手続きをとっていた。一例をあげると、享保一八年(一七三三)一二月、山家集落に住んでいた五左衛門は、それまで所持してきた土地を小川家に「返進」した。その際、小川家にあてたと考えられる証文の内容は、大略つぎのようなものであった。
五左衛門は、小川家から開発用地一町六反九畝一歩を割り渡され、以来これを所持してきた。しかし、だんだん生活が苦しくなり、年貢を滞納し、幕府より拝借した夫食も返済できないので、組頭や五人組の者たちと相談し、当時の小川家当主弥次郎に地所を「返進」することを申し入れた。弥次郎も拠所なきことと思い、「返進」を了承した。これにより、今までの屋敷・畑の開発や植木に掛かった経費(「入用金」)一両二分を弥次郎から渡され、負債を完済することができた。「返進」した土地については、弥次郎の手もとに置いても、ほかの百姓に渡しても構わない(史料集一二、三四七頁)。
以上のようになるが、それまでの土地の維持・管理経費を代価として、地所を小川家に返却している五左衛門の行為は、小川本村でみられた土地の「返進」と全く同じである(本章第一節7)。したがって、小川新田出百姓分の土地も本村と同様、出百姓の土地であるとともに開発人小川家の土地であった。こうした土地の性格は、出百姓分の土地が小川家の主導で開発されたという経緯に根ざすものと考えられる。
それゆえに、出百姓らは、土地を手放すにあたり、勝手に土地を処分できず、小川家に返却しなければならなかった。一方、小川家は「返進」された土地を自らの手もとに置くか、新しい所持者をみつけ、引き渡さなければならなかったが、基本的には後者を望んだ。出百姓分の土地「返進」の事例は、五左衛門の例をふくめて、計一三例が確認できる。このように、本村名主の小川家は出百姓分において、開発人としても存在していた。開発期ゆえに生産が不安定で、定着できずに土地を「返進」する者も少なくないという状況下、開発人として小川家が果たす役割は大きかった。