元文元年(一七三六)一二月、代官上坂安左衛門・勘定長坂孫七郎(ながさかまごしちろう)らにより検地が実施された。この検地によって、それまで開発されてきた土地の地目や反別、年貢負担者などが確定され、小川新田は制度的に成立したことになる。元文検地を契機として、武蔵野新田の諸村では新田村独自の村役人が設置されたり、年貢の賦課・収納が本村と別々に行われたりするようになったが、小川新田でも検地後ほどなくして、独自の名主が置かれるようになった。
元文五年、小川本村の名主小川弥次郎家から別家するかたちで、小川新田名主家が立てられた。この時、新田名主家の当主となったのは、小川家五代当主で現当主弥次郎の父親でもある弥市(六郎左衛門重好)であった。ただし、小川新田には移住せず、小川本村にとどまった。そのため、弥市は新田名主とともに、村政の後見役にあたる本村の年寄をも兼ねることになり、以降、両役職を弥市家で世襲した。
新田名主家が成立すると、小川新田の年貢の収納方法に変化が現れた。すでに述べたように、これまでは小川本村の名主が、新田の小川村持添分・出百姓分両方の年貢収納実務を取り仕切っていた。しかし、新田名主家の成立後、年貢割付状や皆済目録は新田名主・百姓に対して発給されるようになった。また、年貢収納実務のうち出百姓分については新田名主が行い、小川村持添分については引き続き小川本村名主が年貢をとりまとめ、その後新田名主家に渡すようになった。新田名主家の成立により、出百姓分は本村と切り離された、独自の年貢収納単位となったのである。
一方、名主と出百姓分の関係も変化した。成立当初の新田名主家は、開発人としての性格も引き継いでおり、寛保三年(一七四三)一〇月には、小川新田の青梅街道沿いの集落にくらしていた市右衛門女房はなが、屋敷割(反別は一町四反九畝歩)を弥市に「返進」している(小川利雄家文書)。成立当初の新田名主家は、出百姓分の開発主として存在していたことが知られるが、以降は、出百姓のくらしが安定してきたこともあってか、新田名主家への土地「返進」はみられなくなる。つまり、出百姓分における、新田名主家の開発人としての性格は失われていく。なお、持添分の土地は天保年間(一八三〇~四四)まで、小川本村名主に「返進」されていることが確認され、年貢収納の方法とあわせ、本村に準じたあつかいを受けた。こうして、出百姓分の本村・開発主からの自立が進んだが、それは持添分との差異が明確化する過程でもあった。