最後に、宝暦九年(一七五九)の村明細帳を中心に、小川新田の概況を記しておく。
小川新田は、江戸日本橋まで道のりが八里(約三二キロメートル)。村高は六七六石一斗八升五合、反別は二一〇町一八歩で、そのうち田方は高六石五斗五合、反別八反六畝一五歩、屋敷などを含む畑方は同じく六七〇石一斗三升、二〇九町一反四畝三歩である。ただし、既述のように、田は水不足により芝地となっており、安政四年(一八五七)の明細帳では、田は書き上げられていない。
家数は七七軒。人口は二九二人で、そのうち男一四八人、女一四四人。家畜は馬が四匹いるが、牛はいない。おもな生業は農業であるが、余業として男は日雇いの仕事や、月に一五日ずつ奉公に出ており、女は販売用の薪を採取していた。なお、一九世紀前半に成立した『新編武蔵風土記稿』によると、男は薪を採って江戸へ出し、女は養蚕および青梅縞などを織っており、幕末期には藍の栽培もはじまった。
住民の飲み水は、小川分水の流末を用いていたほか、明治一一年(一八七八)の文書によると、山家に住む者たちは昔から、玉川上水縁に設置された水汲み場で、玉川上水から直接飲み水をえていたことがわかる。
寺社としては、平安院(へいあんいん)(臨済宗、現仲町)と熊野宮(同)があった。平安院は元文四年(一七三九)、小川寺六世省宗硯要と小川新田の開発主小川弥市により創建。小川新田の檀那寺として引寺されたとみられるが、新田住民はすべて小川寺の檀家であった。一方、小川新田の鎮守熊野宮(くまのぐう)は、宝永元年(一七〇四)に岸村(現武蔵村山市)の阿豆佐味天神(あずさみてんじん)の摂社を一本榎に遷祀したものと伝える。