近世の鈴木新田

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鈴木新田の村域は、おおよそ現在の鈴木町、花小金井南町、上水本町のほか、天神町、御幸町、上水新町などにも該当する地域がある。
鈴木新田の村域
図1-24 鈴木新田の村域

 近世の鈴木新田は、玉川上水の南側の「上鈴木(かみすずき)」、玉川上水の北側の「下鈴木(しもすずき)」と呼ばれる地域で構成されていた。上鈴木と下鈴木が境を接することなく、離れた場所に位置していることは特徴の一つである。また下鈴木のうち、玉川上水沿いの地域は「堀端鈴木(ほりばたすずき)」と呼ばれていた。
 鈴木新田は享保年間(一七一六~三六)に村が成立してから、近世を通じて村高七四七石余、面積二五六町余であった。この村高と面積は、「武蔵野新田」と呼ばれる周辺の村々、約八〇か村のうちでも大きい村の一つである。享保期の新田開発の結果の一端を示した元文四年(一七三九)の史料、「南北武蔵野出百姓草分書出帳(なんぼくむさしのでひゃくしょうくさわけかきだしちょう)」によれば、鈴木新田は家数も最も多く、一二三軒と記されている(史料集一二、八三頁)。なお、この「書出帳」の記載によれば、小川新田、野中新田の二組(善左衛門組・与右衛門組)、大沼田新田も家数の上位を占めている。合計すると、「書出帳」に記載された全家数一三二七軒のうちの二七二軒、つまり全体の二〇%に相当する家数となる。すなわち現在の小平市域は、享保期の新田開発によって、ほかの地域よりも多くの百姓が移住した地域といえる。