貫井村の開発願い

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鈴木新田の開発は、貫井村(ぬくいむら)(現小金井市)の名主鈴木利左衛門らによって、開発の願書が出されたことをきっかけとする。鈴木家は、もともと貫井村を開発した家であったといわれるが、それは鈴木新田を開発した利左衛門重広から三代前、寛永年間(一六二四~四四)頃に活躍した鈴木若狭守重貫によるものであったという。
 現在の小平市域で享保年間(一七一六~三六)に成立した村のうち、利左衛門の新田開発にかかわる痕跡が最も古い。直接の史料は残されていないが、享保六年(一七二一)九月の史料によれば、七〇年前の巳年に、貫井村のうち「内野」と呼ばれる地域の開発を試みたことが記されている(史料集一二、七七頁)。七〇年前の巳年とは、承応二年(一六五三)のことであろうか。いずれにせよ、一七世紀中頃に、貫井村の百姓は「内野」の四〇〇町余の開発を試みていたようである。また、同じく享保六年一一月の史料には、内野には「大長久保」「小長久保」という湿地があり、馬草(まぐさ)を取るには不便であったが、かえって「田場(たば)」になると考え、百姓が居住して開発を試みたという(史料集一二、七八頁)。これらの地名は、現在の小平市の東端、花小金井南町三丁目の「長久保」、そして現在の小金井市内の「小長久保」として確認できるため、このあたりの地域をふくんだ場所と考えられよう。ところが実際には、井戸を掘ったが水は出ず、飲み水に不自由した百姓は結局、貫井村へ帰ったという。まだ玉川上水が開通する前のことであった。
 ところが、承応二年一一月に玉川上水が開通した。開発を試みた「七〇年前の巳年」が同年のことであれば、貫井村へ百姓が帰村した直後のことだったのだろうか。貫井村が開発を願っていた地域の「中通り」が、玉川上水の流路になったという(史料集一二、七七・七八頁)。すなわち、玉川上水の南と北の一帯を、貫井村百姓の開発願場としていたのである。玉川上水の開通によって、百姓は水をえることが可能となり、周辺の地域に居住する素地ができたといえよう。
 
貫井村と鈴木新田の位置関係
図1-25 貫井村と鈴木新田の位置関係

 さて、貫井村の利左衛門は正徳二年(一七一二)一二月に、国分寺村(現国分寺市)六右衛門と共に、代官雨宮勘兵衛・勘七郎役所へ開発願いを出している。開発願場は「国分寺村御召上地」と「小金井村岩間屋敷」で、利左衛門は、この林に猪鹿がいて作物を荒らして困るため、林を伐り払い、開墾したいという理由を述べている(鈴木家文書)。このときの直接の開発理由は獣害であったが、利左衛門は土地の開発には積極的な人物であったといえよう。正徳年間(一七一一~一六)は、小川村でも開発願いを出していた頃である(本節2)。武蔵野地域が開発に積極的であったようすがうかがえる。
 その後、享保五年一〇月に貫井村百姓はつぎのような証文を作成した。「以前、内野の開発を代官へ願い、代地の買い請け金五〇両を村中で割り出すことを惣百姓と相談したが、これまで四~五年にもわたり、銭四〇〇~五〇〇文ほども捻出しているため、これ以上は銭を出すことはできなくなった。そこで、もし願いがかなった時は開発場を一〇分割にして、このうち七割は「願元締」へ渡し、残りの三割は貫井村の名主・組頭・百姓が相応に分配する」(史料集一二、七五頁)。この証文は、貫井村の百姓四八名から名主中へ出されたものである(図1-26)。「内野」の開発は、利左衛門だけの希望ではなく、貫井村の多くの百姓によるものであったのだろう。享保元年頃から、百姓たちはたびたび開発を願っていたが、なかなかうまくはいかず、資金も底をついてきていた。しかし、開発の意思を持ち続けていた百姓は多く、「願元締」の資金さえあれば、開発場をえたいと考えていたのである。たとえ願場のうちの三割のみを村で分けることになっても、開発場は欲しいという希望であった。

図1-26 貫井村百姓の証文
享保5年10月「入置申証文之事」(史料集12、p.75)
『鈴木家文書目録』口絵より転載。