図1-27 利左衛門らと善左衛門の約束を示した証文
享保6年8月「相渡申証文之事」(史料集12、p.76)
善左衛門との約束を取り付けた貫井村は、翌九月に代官松平九郎左衛門役所へ、惣百姓代一五名・組頭三名・名主利左衛門の連印による開発願いを提出した。貫井村では玉川上水開通後、田畑の開発を企てて武蔵野へ出て、上和田村(かみわだむら)・中和田村(なかわだむら)・関戸原宿村(せきどはらじゅくむら)(以上、現多摩市)から「野札」を買い上げ、代地を立てて開発をしたいと考えているが、出入(でいり)(争論)などが起こっては困るので願書を提出する、開発の古い証文もあるので吟味のうえ、開発を許可して欲しい、という内容であった(史料集一二、七七頁)。
続けて一一月にも願書が作成された(史料集一二、七八頁)。かつて「大長久保」「小長久保」の開発に失敗したのち、玉川上水が開通し水利の便がよくなったため、再び開発を行おうとしたが、府中三町の開発は差し障りがあるといわれている。しかし、この地はかつてほかの村々に開発許可がされた地で、それらの野札を我々が譲り請けて、原野の利用料である野銭(のせん)を上納している。ここを代地として開発をしたい。願い地には古い印(しるし)などもあるため、見分(けんぶん)の上で開発を認めて欲しい、という内容であった。貫井村は武蔵野の開発のため、着々と下準備をしてきたのであった。
貫井村は享保七年四月二八日にも、代官松平役所へ開発願いを提出し、開発地の見分や開発の古証文などの吟味、そして開発許可を願った。しかし、これらの開発願いはいずれも不許可となった。幕府はまだ、いずれの村にも開発の許可を出していなかった。
ところが三か月後の享保七年七月、日本橋に新田開発の高札が掲げられた。ついに幕府が新田開発政策を打ち出したのである。利左衛門ら貫井村の村役人は八月一九日、代官岩手藤左衛門役所へ、改めて開発願いを提出した。開発願いには、「貫井村新田願地」の八〇〇町余は、利左衛門の祖父がかつて開発した地であると書かれている。開発の理由として、青梅領・平井領を通る村々から江戸への道は、武蔵野の原道で木陰が一切なく、数年来、雪や雨の時は人馬が武蔵野のなかで迷い、夜を明かすなど難儀していることを述べている。名主利左衛門、組頭善左衛門、同甚五右衛門、同元右衛門、ほか惣百姓代三名、合計七名を差出人とする開発願書であった(史料集一二、八〇頁)。このうち善左衛門は開発に出資した善左衛門、甚五左衛門とは小金井村(現小金井市)の甚五左衛門、元右衛門は上谷保村(現国立市)の元右衛門(本節4)であろう。実際は他村の者である善左衛門らが、貫井村百姓として名を連ねている。願書のうえでは「貫井村百姓による開発」という形式を貫いたのであろうか。
図1-28 利左衛門・善左衛門らが提出した願書
善左衛門・甚五右衛門・元右衛門が「組頭」として連印している。
享保7年8月「乍恐口上書を以奉願上候」(史料集12、p.80)
ところで、享保八年一〇月に、利左衛門と善左衛門は、一万町歩の開発請け負いの上納金目録、そして三五〇〇両の借金のうち残金三〇〇〇両余を三度の借用予定とする書付(かきつけ)を作成している。書付には、二〇〇〇町歩は「我々願地」、すなわち自分たちの開発願地であり、何万町歩は「御公儀様御開発成り」とある。「公儀(こうぎ)」(幕府)の「御開発」は一万町につき代金六〇〇〇両で、「拙者共請負の勘定」、すなわち我々が請け負った勘定とある(史料集一二、八一頁)。詳細は不明だが、利左衛門と善左衛門は、のちに鈴木新田となる村域、あるいは内野の四〇〇町歩だけではなく、より広範囲の、幕府による開発も請け負っていたとも考えられ、利左衛門と善左衛門のつながりを示すものとしても興味深い。