「貫井村願場」の開発許可

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享保九年(一七二四)五月、開発を願い出ていたほかの村々と同様、利左衛門らに対しても、ついに開発の許可がおりた。「貫井村願人利左衛門」に対して、玉川上水の南北両側、二九九町歩が割り渡されたのである。開発地には、享保六・七年の開発願書に記していた「野札」を買い請けた分も入っていた。この地は「貫井村願場所(ねがいばしょ)」として、利左衛門へは、享保九年から享保一一年の三年間、役米(やくまい)四四石余を毎年上納するように命じられた(史料集一三、三三〇頁、口絵4・図1-29)。

図1-29 開発場割渡証文(上)と開発場取上証文(下)
享保9年5月「武蔵野開発反別割渡之事」(史料集13、p.330)

 一方、これとは別に、貫井村に対しても一五町四反歩および八反歩の土地が割り渡されている。利左衛門へ許可した開発場とは別に、「切添(きりそえ)畑改出」として、貫井村の持添分(もちぞえぶん)である開発地が割り渡された(史料集一三、三三一頁)。小川新田と同様(本節2)、村の持添分も許可されたのである。
 享保一〇年三月には、善左衛門との間で享保六年に交わした約束も果たされた。利左衛門に割り渡された二九九町歩のうちの一〇〇町歩、約束通り三分の一が「上総国万石村善左衛門」とその仲間に渡された(史料集一二、八二頁)。開発願いを出し続けたためにかかった費用は一〇〇両余になっていたが、これも双方で立ち会いの上、町歩で割り掛けて、出入が起こらないようにすることが決められた。なおこの時点では、利左衛門は享保九年分の役米の上納を済ませていた。