利左衛門は開発許可をえたのち、早速、入村希望者を募ったのであろう。享保一〇年(一七二五)一〇月の「譲り渡シ申開発地証文之事」には、利左衛門が「武蔵野開発場」のうち、四町七反歩の土地を儀右衛門へ売り渡し、その「祝金」として三両を受け取った旨が記されている(深谷家文書)。利左衛門は貫井村に居住しながら、開発場を各地の百姓へ割り渡していったのである。証文には、儀右衛門が役米を上納すること、竹木の囲いをしたうえで家を建て、開発を行っていくべき旨も明記されている。土地を買うだけではなく、実際に百姓たちが家を建てて、開発場に居住することを前提条件とする土地の割り渡しであった。