開発地を割り渡された利左衛門は、享保一〇年(一七二五)に四七歳で病死し、その忰半内が利左衛門と改名し開発を引き継いでいた。ところが、翌享保一一年六月一一日、利左衛門は前年の役米を納められなかったことで開発場を取り上げられ、開発場は善左衛門と元右衛門に渡されてしまう。利左衛門は役米を一年目しか上納できなかったのである。前掲の享保九年五月の開発場割渡証文の裏には、貫井村の利左衛門が役米を滞納したため、吟味の結果、開発場を取り上げ、今後は善左衛門と元右衛門へ役米を申し付ける、と明記されている(図1-29)。すなわち、開発の出資者であった善左衞門、そして善左衛門と共に開発願いに組頭として名を連ねていた元右衛門が、利左衛門が許可を受けた開発場「貫井村願場所」の役米を支払うことになったのである。
これと前後して、開発場の村名と村役人が決定されたようである。享保一一年六月、野中新田名主源右衛門(のち与右衛門と改名)らが円成院(えんじょういん)に差し出した願書によれば、近在遠方から入村した百姓が多くなったので、このたび村名と村役人を仰せ付けられた、とある(本節4)。野中新田の初代名主には源右衛門が就任し、善左衛門は組頭となった。一方の利左衛門は、支配代官から開発場を請け負う力がないとみなされたのであろう。この時点において、利左衛門の開発場をふくめた一帯が「野中新田」として把握されることになった。